「嫌い」に壁。いつの間にか「好き」にも壁。
昨日、某グルメ芸人が不倫をしたとかなんかで、非常に騒ぎになっていましたね。奥さんがいるにも関わらず、不倫をすることに関しては理解はできませんが、正直こういうニュースには興味がわきません。
湧かないようにしている、といった方がいいかもしれません。
なぜかというと、誰かに負の感情を持つことは、僕にとって疲れることだから。自分に直接関係あることに対してならまだしも、別に迷惑をかけられてないのにわざわざ負の感情をぶつける必要性を感じません。
ああいうニュースに嫌悪感を抱くならまだしも、わざわざメッセージを送る人は、それはそれでストレス発散とかになっているんでしょうけど、そういうストレスの発散もどうかなとは個人的には思っています。
ニュースとかに対してだけじゃなく、人に対してもそこまで「嫌い!」って思うことは少ないです。人生で数えて1人か2人くらいです。ちなみに苦手は結構います。ちなみに、僕の中での嫌いと苦手の線引きは、生理的に無理かどうかです。苦手は、単純に人間としてタイプが違うだけで、そういう人もいるだろうな、くらいの感覚。
僕がそうなっているのは、性格がそうだから、という理由もありますが、さっき書いたとおり、嫌いっていう感情を持つこと=疲れる、と考えているから、わざとそう思わないようにしているのも大きいです。
あと、嫌いって思いそうになると、心をオフにして、その対象を認識しないようにしています。その方が、無駄に疲れはしない気がするのでそうしています。また、嫌いと言わず、苦手と言葉を変換していたりもします。これが意外といいんです。この人とは違うから仕方がないと、自分に言い聞かせてる気分になります。
だから、そいつが嫌いだから、という理由で喧嘩したりぶつかったりしたことは記憶にはほとんどありません。意見の相違で、言い争うことはあっても、それでその人を嫌いになったりはしません。
この性格や考え方は、自分の人生にとってメリットがあり、アイデンティティだとも思っていました。だけど、最近そうじゃない、と強く思うようになってきました。
なぜなら、根底にあるのが、疲れるから、ということだから。でも、誰しも感情が動くときは、疲れるものです。それが、好きという感情でも。でもそこから、疲れるから、というくだらない理由で逃げている自分がいることに気づきました。
好きでい続けるのは、本当に体力がいると思います。何か嫌なことがあった時、揺らいでしまう気持ちをなんとか維持しないといけないから。維持に体力を必要としない「好き」が、無償の愛だと僕は思っています。
好きだと思う人はたくさんいます。家族、友人、先輩、後輩、仕事場の同僚、上司、大勢います。でも、最大限に好きだという人はいないなって思ったんです。大きくしすぎると、いつかしんどくなるから。そう思って壁を作ってしまっていたんです。
それに気づいてから、なんか思っているより、自分は冷たい人間なのかもしれないと感じてきました。好きだという気持ちに嘘はありません。ただ、疲れるからというくだらない理由で、壁を作っていることが、なんだか冷たく感じます。
壁は自己防衛。だから必要なのは間違いないと思います。けど、その壁のせいで、ほしいものが手に入らない、そんなことが今までもあっただろうし、これからもあるような予感がします。
僕にとって壁は必要。それが自分を保つことにもつながるから。けど、ただ疲れるからなんて理由で張っていくのは、なんだかもったいないような気がします。大きい嫌いは作りたくなんかないですが、大きい好きは手に入れたい。今のままじゃただの我が儘になってしまいますね。