2020年4月26日(日)

自分の気持ちが言葉で表現されると、スッキリすることもあれば複雑な気持ちになることもあると思う。”共感性羞恥”はその言葉を知ったときから、自分にとって強く当てはまるし、ずっと考えていたことを見つめなおすきっかけになった。

”共感性羞恥”については、この方のnoteにとても詳しくまとまっている。

共感性羞恥は羞恥ではない。あなたは共感する力が豊かな人なのだ。

https://note.com/masumiyutaka/n/n654488a523e9

この言葉を初めて知ったときに思ったのが、「これって当たり前じゃないの?」という疑問だった。最近でもテラハを見ていて、この人(特に軽井沢編の聡太)が恥をかくんじゃないかと思い始めた瞬間にスキップしたりアプリを消してしまうことが毎回ある。ただテレビ番組の調査結果(出典不明)によると、割合的には約10%ぐらいの人しか感じないらしい。

こういった事実は大学生になったぐらいから、自分が特別ではないと思うことが多かった自分にとって、見方が変わったことでもある。

例えば、日頃Twitterでみる投稿に共感して、この想いは自分だけじゃなかったんだという認識と、自分は特別ではないという悲観的な見方をすることが増えた。高校生のときと違って、学問でも差がつかなくなった。人として、大学生として何か尖っていない感覚は、アイデンティティの喪失に結びついて、自信がもてない時間はたくさんあった。

しかしこれは捉え方の問題でしかない。
そもそもその大学に進学したことで生まれる”差”というものは存在している。その大学で受けた授業、出会った友達や先生、そして自身の変化。他人と比較したとしても、良し悪しを決められない”差”がある。”共感性羞恥”だって、恥ずかしくて耐えられない場面があるかもしれないが、他人の立場に立って考えることができるポジティブな個性でもある。大学内の閉じた環境だとそれを感じにくいかもしれないし、そう認めたくないかもしれないが、客観的に見れば疑いようのないことである。

そして何より、個性は”差”の掛け算だと思う。自分が他人と比べて何も個性がないと思ってしまうのは、ある一つの”差”に対して固執してしまっているからに過ぎない。そうではなくて、自分と他人のたくさんの”差”に気を付けてみることで、自分が自分しかいないことに気が付く。その”差”が世間から見て些細なことや、評価が下がるようなことでも、それでいいと思う。

逆に良くないことは、自分の意見を持たないことや気持ちを表現できないなど、”差”の定義の仕様がないことだと思う。