徒然草 幡野広志さんの写真展に行って感じた、今の自分
2019/3/4 1:50:58
幡野広志さん。
ずっと気になっていた写真家の方で、最近よくテレビでも見るようになった。なぜ気になってたか、というと写真ではなく、正直彼のバックボーンだった。
写真家
元狩猟家
がん患者
ちょっとだけだけど医療のコミュニケーションについて深く関わるようになってから、そういった当事者の方の生活がきになるようになってから、ある社内ディスカッションで彼の名前が出てきてから彼のブログや連載を読むように。
今日、彼の写真展「優しい時間」にいってきた。
TOBICHIに行くのも初めてだったから建物を間違えたところから始まり、ようやく着いた。
真っ白な、少しざらつきのある壁に描かれたタイトルと優くん(息子さん)のお写真。
入ると右手が「海上廃墟」と題された、25歳の時に海沿いを旅した時にふと思いついたというアテを、十年経った今、あえて掘り起こしてきたようだ。25歳の自分を頑張りを褒めたい、と書いていた。
そうやって、私も25歳の自分を、懐かしむことができるんだろうか、と思った。
おそらくそうなるだろう
と思うのだけれども、その具体的な内容まで、こんな毎日忙殺されたながら過ごしていると、毎日が噛み締められて生きているのかな、と不安になった。
もしかすると
「あの頃は、超忙しくしていて何やったか覚えてないよ」
なんて言葉しか出てこないかもしれない。これはきっと、後悔する。毎日が作業と時間に追われていて、ぶっちゃけて言ってしまえば、超今おかしい。
たまに来る良くない波みたいだけれど、身体的なのか精神的なのかわからないけれど参っていて会社に行きたくない、というより、仕事に手をつけたくない、とさえ思っている。
周囲に迷惑かけているのもわかるけれど、その優しさがまたくるしい。
幡野さんの写真を一つ見て、心が救われた、というよりも今の自分が整理出来たんだ、とも思った。こうやって、言葉にして話せているから。
2階もあった。
階段を登る前、狩猟の幡野さんの写真が出てきた。そこには、イノシシが雪の中で、血を流して正面を見ている写真と、横には雪が血で染まった写真があった。
命が途切れた瞬間と、いつの間にか流れている無機質な空気の流れが、同時にあった。
死ぬということは、時間にここで終わり、と印を付ける瞬間でその印を見て生きる者が何かを感じ取ることができれば、その人を心の豊かな人間だというのかもな、と、だらだらと思いはせていた。
2階に登った先には、息子の優くんギャラリーだった。
目に入ったのは、優くんのこれまで日常をムービーに落としたものだった。例えば、誕生日の日にケーキのろうそくを一生懸命消そうとするけれどなかなか消えてくれない時間や、公園の水のみばの水を出したり止めたり、ただその繰り返し。をしながらずぶ濡れになる優くん。
なんとも微笑ましいムービーで、1階を難しい眉で見ていたことがわかり取れるぐらい顔が綻んだ。
その瞬間が分かった時、ふと我に返った。
これを撮っている幡野さんの余命は、幾許も無いというコト。その揺るがない事実を自分に投影してしまい、私は急に泣いてしまった。
優しい時間に、印がつく時が来る。
血ではない、印がつく時がある。
それはきっと、息をしていない、という印。
それはきっと、周りが悲しむ、という印。
自分もいつか、印を付ける時が来るのか、と思うと、私はまだまだ怖い。
印を付けるまでに、私も私がしたいことを、毎日突き詰めないといけない。
それが今の日常では正直発散出来ていないのもある。
自分がうまくデザインできていない。
そう思うようになった。
だから、もう少し、自分のことをちゃんとちゃんと考えて変えていこうと思う、そう思えた、決意のここに残すことにした。
取り留めもない、ただの徒然草。
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