事後諸葛亮

事後諸葛亮とは

「だろうと思った」「そら見たことか」等と、後になってから、初めて以前から知っていたかのように口出しする人を指す中国語圏のスラング。

諸葛亮って?

中国三国時代にて蜀漢に仕えた政治家。

三顧の礼
諸葛亮が晴耕雨読の日々を送っていたころ、友人・徐庶は劉備玄徳のもとに出入りしていました。この徐庶が諸葛亮のことを話したところ、劉備は興味を示し「諸葛亮を連れてきてほしい」と頼みます。しかし徐庶が「自分が呼んだ程度では来てくれない」と答えたため、劉備は諸葛亮の元に直接足を運びました。1度目も2度目も留守で会えず、3度目でようやく会うことができた劉備は、漢王朝復興のために力を貸してほしいと伝えます。こうして劉備の熱意にうたれた諸葛亮は、臣下になることを決めたのでした。
この頃の劉備は40代で、既に天下に名を挙げていました。一方の諸葛亮は一部の人間にしか知られていない20代の若者。
このことから、身分の低い者を最高の礼儀を以って迎え入れることを「三顧の礼で迎える」と呼ぶようになった。

天下三分の計
劉備に仕えることとなった諸葛亮は、中国全土の統一を目指していた劉備に漢王朝再興の方策を訪ねられ「天下三分の計」を披露します。
この当時もっとも勢いを持っていた曹操は、あと少しで中国統一を果たせる状態でした。そこで諸葛亮は、まず劉備が身を置いている荊州を足掛かりに隣の益州の覇権を奪い、劉備・曹操・孫権の3名で天下を分けることを提案します。その後、孫権と組んで曹操を倒し、機会を狙って孫権も滅ぼせば、漢王朝を復興できるというのが諸葛亮の考えでした。これを聞いた劉備はその知見の深さに驚き、諸葛亮に惚れ込んだのです。

水魚の交わり
武将であり後の皇帝となる劉備は、優れた軍師である諸葛亮を大変気に入っていました。この様子を、劉備が諸葛亮の部下に「私たちは水と魚のようなものだから」と説明したことから、「水魚の交わり」という言葉ができたとされています。

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