医者が病気になること
私はうつ病であることをあまり隠してはいないのだが、そんなに明かしていくつもりもない。たまたま出てしまうときに出てくればいい。精神疾患は個人と社会との境界に現象するものなのだからうっかり出てしまうことがあるよ、くらいの感じでやっていきたい。
しかし私が医者であることを加味すると少々違ってきて、注意しなければならない点があると同時に、その注意点自体が精神科医療を考える上でおもしろい論点になる。これは病の「真理開示性」と内海健先生が呼ぶところのものと無関係ではなくて、結び目がほどけかけているときにこそ結び目の仕組みがよく見えるのと似たようなことだと思う。
医者が「当事者」を名乗ってよいのかという問題がある。当事者という言葉は障害学やマイノリティの権利運動の中で使われてきた歴史がある。精神障害を持つ患者の当事者研究も、医療が当事者を「障害者」として記述的に理解するという抑圧的状況を、本人の体験を共有するプロセスを通じて覆していこうとする面を持っている。当事者という言葉はマイノリティの人たちの力になってきた。
当事者という言葉はこのように字義通りの意味を超えた歴史を含んでいるのだが、そのような歴史性に目をつぶってこの言葉の持つ力だけを利用することもできてしまうから、なかなか難しい言葉だ。医師が当事者を名乗ると、医者が病気について語るなら正しいのだろうと思わせる権威性と、当事者が語るなら正しいのだろうと思わせる権威性の合わせ技で、文句の言えない雰囲気を作ることができてしまう。権威性が突出して、当事者という言葉のもつ歴史性と意義を毀損してしまうと思うのである。
個人の体験から疾患について語れるのかという問題もある。精神医学の歴史を通じて、精神疾患は生物学的基盤が想定されてはいるもののそれらは明らかでなく、数値に還元できる測定によって疾患を定義できないため、臨床的に観察される症状と経過から疾患を捉えている。個々の患者さんの記録を症例という形にまとめ、複数の症例を重ね合わせているうちに抽出されたものが疾患のモデルとなるわけだが、おもしろいのはここからで、このモデルが再帰的に個々の症例のまとめあげの過程に影響を与えることになり、具体から抽象、抽象から具体というループ構造ができる。そしてこの構造から析出するのがいわゆる有名症例というもので、フロイトの鼠男やアンナ・O、ブランケンブルクのアンネ・ラウなどがそれにあたり、豊かな具体性と、高度な抽象性へと突き抜けていくポテンシャルを持つ、症例記述としてのひとつの到達点が生まれる。精神医学はかつてこういった有名症例を共有することで理論的枠組みを構築してきた。
このようなプロセスで獲得された疾患の全体像を「理念型」と呼ぶ。すでに述べた通り精神疾患は生物学的な因果関係で疾患を記述することができていないため、理念型に近いか遠いか、という判断で診断を下してきた。理念型は部分的な記述に還元しきることができなくて、たとえば、この人のこのエピソードはうつ病っぽいけど、全体的にはうつ病の印象を受けないからうつ病と診断するのを保留する、ということが当たり前にあった。そんなあやふやなものでいいのか、という批判は当然あって、たしかにこれでやっていた大昔は、患者さんの何に注目してどの理念型に照合するかということが、地域によってかなり違っていた。それではいかんということで1980年にDSM-Ⅲという、観察可能ないわば部分的記述に限定させた診断基準がアメリカで出されるわけだが、やっていることの基本は同じだよねというふうに個人的には思っている。
説明が長くなったが、何が言いたいかというと、精神医学は個別の症例を皆で突き詰めることで一般的なものに到達しようという、見方によれば逆説的な契機を含んだ営みを内包している。これをただのパターン認識だと言ってしまえる人は何も疑問に思わないだろうが、私はこの個別と普遍、具体と抽象の運動がとても不思議なものに感じられ、なおかつ精神医学にとってエッセンシャルなものだと考えている。だから、私一人の病気体験を簡単に疾患の一般論にできないし、他の患者さんに当てはめることはできないのである。
人はごく自然に自分の体験を他者と共有しているし、反対に、自分の体験は他者からは隔絶されているとごく素朴に感じることもできる。だから、医者だって自分の体験が概ね他者と同じだろうと思っているし、同時に他の人の体験を安易に同じだと思ってはいけないよなとも思う。しかし、ここで私が言っているのはそういうことではない。そのような人間一般のレベル、人が生きるという営み全体の話ではなく、精神医学という狭い領域の原理について話している。
つまりこれはプロフェッショナリズムについての話だ。自分の体験が概ね他の人にも当てはまるのは素朴に正しいし、医者の仕事もそのような人間の営みなしには成り立たないのだが、医師として医学的に語るときには医学の論理、それは不自然で作為的なのだが、に準拠しなければならない。それは、素朴な世界と作為的な世界の二重写しを生きることだ。あえて思考に制約をかけることと、制約の外側を知ることの二重性とも言える。
話が勇ましくなってきたが、要は、私は医者であるから、病気をもっていたとしても当事者とは名乗らないし、病気をもっていることをもって患者さんのことがよくわかるとは言わないということだ。これは職業上の要請だと考えているから、他の人には当てはまらない。まあ医者には同意してもらいたい気持ちはあるけれど、ちゃんと理解してくれる人はあまりいないような気がする。
「真理開示性」について何も触れていないことに気がついた。これはまた今度考えます。
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