泣けない

実家の老猫が弱ってきているらしく、何もしないでいると悲しくなる。ひとりのときに気がついたら泣いていた。家族といてもふとその猫との思い出に浸っていて、妻にどうかしたのと聞かれるけれど、いやべつに、と言って黙るとなんとなく察してそれ以上何も言われない。いっそのこと思い切り泣けたらいいのにと思わないでもない。泣けたら楽になるのかなと思う。それでも泣きそうになるととっさにこらえてしまう。悲しい気持ちから逃げたいのだろうか。泣いているところを見られたくないのかもしれない。そういえば最近はアンガーマネージメントとかもそうだけれど、感情を「正しく」理解してうまくつきあっていきましょうというお話が多い。別れは人生につきもので、喪失こそが人生で、しかしそう言われたところで悲しい気持ちはつらいに決まっていて、それをまるでポジティブなものかのように言ってしまってはその悲しみを、その別離を、その失った対象を、毀損してはいまいか。悲しくたっていいんだよと言われても悲しいのはつらくて、目をそらせるものならそらしたい。そういうものではないか。

泣いているところを見られたくないのかもしれない。これはたまに男性性との関係で語られることがある。男性と見なされた子供は泣かないように言われて育ち、泣くとみっともないと言われ、互いに感情をケアすることを学ばないから、自分の感情もネグレクトしてしまう。いわゆる有害な男性性という議論で、たとえば『ボーイズ: 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(レイチェル・ギーザ著、冨田直子訳、DU BOOKS、2019年)や『男らしさの終焉』(グレイソン・ペリー著、小磯洋光訳、フィルムアート社、2019年)といった本でも触れられていたように思う。まあ男性というのはそういうところがあるでしょう。全体の傾向として。その視点を持つのはきっと正しいし社会的なアクションを起こす上では有用だと思う。ただ、私自身の感情との付き合い方について考えるときに、それが男性性の帰結であると捉えてしまうのはどうも嫌で、まあ影響は少なからずあるにせよ、それは背景の一部でしかなくて、それを出発点として考えないでほしい気持ちになる。それをより中立的な書き方をすれば、男性性というのはあくまで相互作用する多様な要因の中のひとつに過ぎないということになろうか。わかりやすいほうで理解してもらいたいけれど、とりあえず私はなるべく私に内在的に考えたくて、その結果ジェンダーの問題も発見される、という道筋をたどりたい。

悲しみと男性性というと濱口竜介監督の『トライブ・マイ・カー』が思いつく。子供と妻を失ったときに「正しく傷つく」ことができなかったことを悔やみ、家福が泣く。そのときにすがった相手が同じく傷ついた若い女性であり、彼女はあくまで気丈に振る舞うように描かれてその非対称性が批判されたりもし、また、家福が劇中の舞台上でソーニャを演じる若い女性の腕の中で慈しまれることが家福の救いであるかのように描かれたことも批判されたりもした。このように、この映画はジェンダー批評の観点から見られることが多かったように思う。たとえば西森路代さんのこの記事とか、杉田俊介さんのこの記事とか。

話があっちこっちに行って結局どうしたいのよ、と言われると困るのだが、なんせ悲しい事態が起きているのだからしょうがない。悲しいことはないにこしたことはないのだけれど避けられない。誰かに代わってもらうこともできない。でも悲しみたくない。そのうだうだの中でなんとかするしかなくて、それはどうやっても見栄えがよくならない。ニュートラルにはならない。感情をみせることで相手は不快になる可能性がある。

だから一般的には、弱さを見せるにはコードに則っていることが必要で、それは相手との関係や場の性質によって違ってくる。あるコードはある人から批判されるし、あるコードはある場では場違いになる。私の感情はその場のコードを通して表現されねばならない。私の感情は場のコードによってジャッジされる。私はそれを耐え難いことだと感じているのかもしれない。

鳥羽和久さんが柳田國男を引いて傷つきを見えなくすることを近代という時代とともに捉えていた。

傷つきを見えなくするには、隠す仕草と別のものを見せる仕草がある。尾久守侑は『偽者論』(金原出版、2022年)で「擬態」と「露出」という言葉を使っていた。傷つきを見えなくしたいとき、悲しみたくないとき、人はただひたすらその感情を押さえつけて蓋をするだけでなく、生の感情を人前に出すにふさわしい姿に装って表に出す。その装いのコードは近代を通じて洗練され続けてきたのかもしれない。コアにある悲しみが高度にカモフラージュされたとき、泣きながら泣けていない状態も生じうるだろう。我々にとって泣くという行為が擬態と言えるような間接性を免れ得ないとしたら、どのように泣くかという問いが常に生じる。何が自然で何が不自然か、何が受け入れられて何が受け入れられないか、そのコードを参照することが避けられない。泣くのに上手い下手がわかれる。本当の傷つきは晒せない。本当の傷つきに近づいては迷い近づいては迷い、コアの周囲を根気強くめぐりながら、感情の輪郭を描く。

逆に言えば、傷つきのコアをむき出しにすることは普通はできないとも言えて、百年前の柳田國男の時代にすでにそれは遥か古代にもとめられた。心のままに泣くというのは神話的な出来事なのかもしれない。そういえば歌舞伎には松王丸の泣きが見どころになる演目がある。世話物なんかで男女とも泣くシーンは結構あってそれはこらえるような泣きだけれど、松王丸はこらえきれずに声を上げて泣く。感情の蓋が外される。これが特別な泣きとして受け止められているのは松王丸の強いイメージとのギャップによって高められたクライマックスとして胸を打つのかっもしれないけれど、それ以上に、この泣きが古典歌舞伎の祝祭性を通じて神話的な次元に届いているからかもしれない。

現代は個人の尊重が極まって、安全なコミュニケーションを皆で追求している。自分の内部を晒すことは相手を傷つけるかもしれず、相手にとってリスクになる。だから自分の傷つきを見せない。これは皆が傷つきに対して敏感になったということで、見方を変えれば小さな傷が大きな影響を与えやすくなったということかもしれず、それはもしかしたら外殻としての個が脆弱になったということかもしれない。内部の傷つきが昔よりも露出しているということすらありうる。すぐそこに傷つきがあることがわかっているから、そこに触れない。安全に、安全に。そのとき私は傷つきを必死で(他者のために)隠し、しかしその隠蔽の成否は相手に委ねられていて、相手が私の傷を見ないふりしてくれることに依存する。傷つきを隠す主体から傷つきを見ないふりする他者のほうへ主導権が移っていることすらあるということだ。私の中の傷つきや悲しみは、他者に発見されるか見逃されるか、そのどちらかで処遇が決まる。許された場面で悲しくなり、そうでなければ悲しまない。そんなふうになる。いっそのこと泣けたら楽なのにというときのやけっぱち感は、そんな他者への捨て鉢な期待に依っている。

何が言いたいのよという感じになってきたけれど私にもわからない。少なくともこの文章は自分の悲しみについて書こうとしていて、結果的に悲しむとはどういうことかというひとつメタなところで展開している。悲しみ自体には触れられなくて、悲しみを表現したら嘘になって、悲しみが誰かのものになってしまう。それが嫌だからこうなったのかもしれない。泣くことはひとつのクライマックスとしてある。心のままに泣き、それは他者、観衆も巻き込んで神話的な、我々という集団の起源まで遡れる力を持つ。でも実際にはそんなことは起こらなくて、ただ誰かと悲しみのコードを確かめ合いながら、あるときは相手が立ち止まってくれ、あるときはスルーされる。それが私は嫌なのかもしれなくて、悲しみを自分だけのものにしておきたくて、残された道として抑え込んで蓋をしているのかもしれない。はっきりとはわからないけれど。

感情を本当にむき出しにはできないし、直接に他者と共有したりもできないよ、それでもできる限り分け合って支え合ってなんとかその都度やっていこうじゃないか、それが穏当なあり方だしなによりあなたは現に今までそうやってきたはずだよ。そうかもしれない。最近の思想的なトレンドはそうかもしれない。いやはやなんとも正しい。だけどさ、やっぱりむやみに扱いたくないし触れたくないわけです。そのためらいがあってはじめてその実践が意味を持つのであって、その逡巡にこそ私が生きている。ある感情をめぐってうだうだしている、そのうだうだの中に私がいる。

ところで、今読んでいる本のひとつが山口尚さんの『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書、2022年)というもので、難しい本、というかきちんと議論をしている本を正確に読み、自分にとって意味のある読書とするための原理と方法と実践について書かれたとてもよい本で、各章で実際の哲学に関する書籍を題材にして読んで見せるのがとてもおもしろい。書籍(の一部)からこんなに美しく豊かな内容が取り出せるのかと感心する。その中に國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読む章があり、國分がハイデガーの退屈論で「決断」によって決然とした自分自身になることが重視されていることを批判的に検討してその都度誰かとの暇つぶしを楽しむことも人間にとって重要ではないかと議論していることが読解されるのだけど、このハイデガーと國分の対照的な関係は今私が考えてきたことと近いかもしれない。直接的な真実の中に閉じこもるか、間接的ないい加減さへ開かれるか、そういう両極だと捉えてみれば、いや、実際ほとんどの時間はその両極のあいだでうだうだしているんでしょ、と私は言うだろう。

結局うだうだとしている。しかし実家の猫は弱ってきているわけで、近いうちに寿命が尽きる。ハイデガーならまさしく「決断せよ」と言うところだろう。しかしそれは悲しくて、しまいこんだ悲しさがたまに漏れてきて泣いてしまうけれど、それが本当の涙かどうかわからなくなってしまって、はっとしてまた気持ちに蓋をして、いっそのこと誰かと泣こうかと思うけれどもそっちにもやっぱり近づけなくて、そういうことを繰り返している。しかし実家の猫は弱ってきている。今私はそういうところでうだうだしている。

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