日記2024年4月②

4月4日
霧雨。教官の先生から電子カルテの使い方を教わるために大学へ行く。こんなことをしているのは自分だけなのではないかと思い、どんくさい自分が嫌になって気が重い。とはいえ、だからこそ、喫茶店へ行く。まずは喫茶店に行く。コーヒーを飲んだ。
大学に来た。
約束の時間になっても教官の先生が現れず、連絡もつかない。めちゃ心細い。死にそうな気持ちで1時間待ち、仕方なく、意を決して病棟まで探しに行った。暇そうにしている若い先生を見つけて、わたくしこういうものですと挨拶をすると、教官の先生はコロナでお休みになったと教えてくれた。忘れられていたわけではないことがわかってほっとした。代わりにその若い先生にカルテの使い方を教えてもらった。新しい電子カルテはインターフェースが直感的でなく使いにくいが、とりあえず明日の仕事はなんとかなりそうである。一歩前進。
その後外来に挨拶に行った。明日からよろしくお願いします。受付の事務さんに挨拶。看護師さんに挨拶。看護師さんは私が大学病院にいた頃に病棟にいた方々だったので安心した。また一歩前進。
昨日は台湾で大きな地震があり、今日は茨城で地震があった。私自身は誰かの被災を気にかける余裕のない日が続いているのだが、しかし被災した誰かもまた、多かれ少なかれ問題を抱えながら自分のことで精一杯に暮らしていたはずで、それも含めて生活が断絶したのだ。
色々がんばったのでご褒美に文庫本を一冊買った。古典を読む年にしたいのでオースティン『高慢と偏見』上巻にした。節約をしたいので本は月1万円以内にする。緩い設定。

マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』の終章を読み終えた。前の日記でこの小説はどのように終わるのだろうと書いたのだが、この終わりの展開には賛否両論あるようだ。物語の舞台は1945年であり、シンは爆弾処理の専門家であり、終章は「八月」であることが目次でわかるのだが、私はこの「八月」があの8月であることに全く無頓着であった。自分の鈍感さを思い知る。広島への原爆投下のニュースを聞いたシンは怒り、イギリスへの呪詛を残して、患者もカラバッジョもハナも残して屋敷を去る。この突然の豹変が不自然なのではないかという指摘が度々なされているようだ。原爆投下という非人道的な行為への極端な怒りと失望。当時の一工兵が原爆投下という行いの実態を瞬時に理解してあのように豹変してしまうものだろうか。また、唐突に歴史的な事実の人道性を問う展開を見せることがここまでのこの小説の「幻想的な」小説世界を転覆しているのではないか。そういう疑問がたしかに生じる部分ではあった。だがむしろ考えてみるべきは、ここに至るまでのこの小説は、この最後のシークエンスに対してどのようなものであるかということなのではないか。
この小説はある種の鈍感さ、緊張感のある弛緩、傷のあとの麻痺がもたらされる特殊な時空間を書いていると言える。戦線が移って打ち捨てられた場所と、戦中でありつつももはや戦後でもある宙吊りの時間によって許される、醒めているが人間的な白昼夢が描かれている。その夢幻的な場に結末が訪れるとするならば、その結末は登場人物たちにとって何らかの決定的なリアル、圧倒的な切断として経験されるはずであり、それは鈍感さを一刀両断し、弛緩を爆破し、麻痺を焼尽する。シンがラジオから知ったことはだから原爆投下という事実や政治的怒りというだけでなく、今生きる自分自身の絶対的な否定として経験される。自分たちが辿り着き、暮らしを構築した密やかな戦争の空隙は、想像しうる最大の非人間的な暴力によって隈なく照らし尽くされてしまった。シンにとって原爆による終戦は、圧倒的な現実(リアリティ)であると同時に詩的な現実(リアル)であり、もう同じ存在ではいられなかった。そういうことなのだと思う。

明日の仕事が不安なので早く寝ることにする。近所のとんかつ屋で夕飯を食べた。子供にちゃんと手を拭くように言ったり、ちゃんと座って食べるように言ったりしたあとで、子供がおしぼりを振り回してケチャップの皿をひっくり返しかけたので、注意したらポロポロと涙を流したあとヒェーンヒェーンと泣いてしまった。こちらも怒っているわけではないし泣かれると哀れに思えて笑い泣きのような表情になる。寝るときに「なんであのときおとうさんわらってたの?」と訊かれたので少し困ったけれど、かわいいからだよ、と答えると、「ないちゃうとかわいいの?」と問い直されて余計に困ったので、いやいつもかわいいよ、と答えになっているのかどうかわからないが大事なことを念押ししたら「かわいいからわらうのか」と納得してくれた。

4月5日
少し早く目が覚めて、少し緊張していることがわかる。新しい職場の初日である。色々と気構えて行ったが、結果的には予想より軽い負荷で済んだ。診察依頼で病院内を回り、看護師さんと相談したりして、この病院で働く感覚を取り戻せたと思う。ただ用意された負荷が軽かったぶん、私の役割というのがはっきりせずどこか地に足のつかない感じもある。まあしかし相談と調整をしながら与えられたことをやっていくしかないだろう。
大学病院の外来業務というと、私の頭に浮かぶのはいまだに昔の古い建物の一室で、医学部の3年生だった頃、初めての病院見学実習で精神科を選び、医師の後ろに座って背中越しに見ていた診察室である。各ブースが簡易的な壁で区切られ、壁の上は隣と交通していて、天井で色々な声が混ざっていた。2010年頃であるが、まだまだ病院は雑多な場所だった。そのときに外来を見せてくれた先生は実は亡くなられてしまった。昔からの患者さんのカルテにたまに名前が残っているのを見る。その記録は消えない。
この数日仕事が不安でしょうがなく、悪い想像ばかりめぐらせていたのだが、そのときに浮かぶ光景は不思議とあの頃の外来診察室で、だから自分の声が隣の先生に筒抜けだな、恥ずかしいなと思っていたのだが、実際には今の外来はきちんと個室である。そのことを知らないわけはないのだけれど、私の記憶は昔の診察室に根を張っていて、そこに戻っていく。
手持ち無沙汰な時間が長く、むしろ気が抜けなくて疲れた。院内で25人くらい知り合いと再会した。その度にやはり気を張るから疲れるわけだけれど、やはり嬉しくもあった。大学病院は精神科医としてスタートした場所だからだろうか、久々に来てみると自分の現在地をあらためて思う。これから再スタートである。再スタートといってもかなり控えめな一歩というか、半歩であるけれど。

4月6日
曇り。朝は少しだけひんやりとしている。昨夜は気が張り詰めて殺気立っていたが、一晩寝てまろやかになった。もともと今日は子供のピアノ教室の日だったが、先生の体調不良でなくなった。動物園に行った。子供はこれまで動物園を怖がって行ったことがなかったのだが、今回誘ったら「ガオーとかされない?」と確認した上で来てくれることになった。動物園に近づくと中から何かのサルの吠える声が聞こえてきた。妻が「何かな」と言うので「園長ではないか」と答えたらややウケをもらった。子供は門を入って最初にニホンザルを見て動物園の安全性を確信したらしく、そこから楽しそうに動物を見ていた。アジアゾウは私より年上だった。アシカが変な声を出して遊んでいた。レッサーパンダの風太くんは寝ていたが展示に出てきてくれていて、長生きの生き物はそれだけでありがたい感じがする。ゴリラがじっと座って首だけ動かして人間を見つめていた。サル類が結構いた。赤ちゃんがかわいかった。マレーバクが寝ていた。絶滅危惧種らしい。ライオンも寝ていた。チーターがきれいだった。ハイエナは意外と顔が大きかった。ハシビロコウが柵越しに向かい合っていた。シマウマには何種類かあって体の大きさが結構違うことを知った。ふれあいコーナーで馬に餌をあげた。手鍋に干し草を入れて差し出すのも子供は怖がらずにやっていて、そのあとポニーに乗って首を撫でて戻ってきた。動物園の食堂で食べるカレーは昔からうまい。
少し雨。動物園は夕方には閉まるのがよい。ヘトヘトになった。全身の疲労と左後頭神経痛。妻はつわりが強い。数時間でこんなに疲れるとは思わなかった。たぶんもとから疲れていたのだ。全部大学病院が悪いのである。帰って夜まで寝たが子供だけ起きて遊んでいた。

『高慢と偏見』。ベネット家の両親が、近々ビングリー氏という若い富豪が隣に引っ越してくることを話している。ベネット氏は関心がないが、夫人はビングリー氏が娘の結婚相手になればいいと思っている。物語の始まり方。物語は脇役や「モブキャラ」の噂話から始まることが多い。歌舞伎でも屋敷ものであれば女中たちの噂話、町のものであれば町人や茶屋の婆と客の噂話。ハムレットも最初の登場人物は城壁の上の歩哨で、その会話で脇役のホレイショーが呼び込まれて先王ハムレットの亡霊の噂話が始まる。物語は周辺から語られ始める。周りがあるから中心が中心として描かれることができる。最初から焦点が合っていてはいけないのだ。この小説も少し読み進めてやっと、ジェーンとビングリーの恋愛ではなく、エリザベスとダーシーの恋愛が中心なのだと見えてくる。物語の始められ方。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?