2024年3月③

3月9日
妻が昔習っていたピアノの先生と今も仲良くしていて、子供もその先生が大好きなのでピアノを習うことにした。今日が初日で、子供は朝から楽しみ半分緊張半分でもじもじとしていた。とても明るい先生で、教室に着いた瞬間から先生のペースになり、子供は着いて2分後にはすごいすごいオッケーオッケー完璧完璧と言われながらピアノを弾いていた。30分で指の番号からドレミ、ト音記号まで進んでいた。妻が子供は準備運動要らないんだねと言っていたが本当にそうで、状況さえ整えば何でも学びはじめてしまう。夏目漱石の『夢十夜』に運慶が仁王像を掘るのを見物する夢の一篇があるが、みるみる習っていく子供は、目の前で神仏を掘り出してしまう仏師のようだった。終わって帰りには「もっとやりたかった」と怒って泣いた。月一回からゆるゆる始めようと思っていたけれど、隔週くらいでやったほうがいいかもしれない。先生の都合と相談である。先生はとてもパワフルで明るいピアノを弾く人で、リストを弾くとモーツァルトのように聞こえるのだが、レッスンのお手本もバスドラムのように音を出すので子供も遠慮なくしっかり鍵盤を叩くからいい音が出る。で、そんなおおらかな人だから予定の管理もおおらかで、たまにレッスンを忘れる。だからたぶん隔週でお願いすればあーいいよいいよと決まるだろうと思う。
習い事のあとは親があまり大袈裟に褒めたり喜んだりしないほうがいいだろうという直感があり、よかったねえ、みたいなぼんやりと全体を宛先とした言葉で受け止めることが多い。あとはせいぜいがんばったねとか楽しかったねとか。習い事では幼稚園とも家族とも違った、独自の自分として生きる場所を得られるといいなと思っている。
毎日日記を残すようにすると、どうしても子供のことが多くなる。G.H.BASSでローファーを物色した。4月か5月に茶系のローファーを買おうかと思う。
マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』を読み始めた。滝口悠生が小説という散文について「文章が繁茂する」と表現していたのだが、この小説も表現の雰囲気や顔つきは違っていてもまさに繁茂する言葉によって人が人を想い、人生を想起することを書いていて、池澤夏樹の帯文にある「詩的散文」という指摘が非常に的確であると思う。戦争という巨大な死が通過したあとの孤立した廃墟でしか語られないこと、想起されないこと、再生しないことがおそらくあって、それを掬い取る媒体のひとつが小説なのだと思う。

3月10日
そういえば、昨夜は妻に用事があって私と子供で先に帰ったのだが、私が中途半端な時間にウトウトしてしまい、起きたら子供が半ベソ顔で座っていた。さみしかったらしい。日付が変わって3月10日は東京大空襲の日である。小学生の頃、岩波ジュニア新書の『東京が燃えた日』を読んで自分の住む街にかつて逃げ場のないほど爆弾が降り、人と一緒に燃えたことを知った。マンションの集まる坂の下に住んでいたから見上げる空は狭かったけれど、空襲後の何も遮るもののない瓦礫だけの写真を重ねてアスファルトの下のことを考えた。不発弾というモチーフで足の下の街の記憶について柴崎友香さんが書いていたのを思い出す。『わたしがいなかった街で』だっただろうか。
明日の朝まで妻が仕事でいないので、子供が飽きないようにまた後楽園ゆうえんちに行った。家でだらだら遊ぶより親としても楽なのである。実家から近いので私の母親も招集した。これも私の楽のためではあるだが、呼べば子供も祖母も喜ぶのでちょうどいい。
ドームホテルに近い場所でいろんな地域の祭囃子のグループが集まる催しをやっていたようで、私たちが通りかかったときには青森のねぶたをやっていた。私の母親は青森市の出身で、私も小さい頃は夏休みを青森で過ごして、親戚の伝手で席を確保してもらってねぶた祭りを見たことがあった。細いバチで叩く大太鼓が跳ねるようにリズムを刻んで、鈴が陰影をつけて、笛で捻って回るような音を加える。ラッセーラーの掛け声で跳んで捻ってステップを踏んでまた跳んで。お囃子とハネトが揃って、本番ほどの迫力はないけれど、十分にねぶたであった。
母方の祖父母はすでに亡く、色々あって青森はもう母の帰る場所ではなくなっている。母はベンチで他のお客さんに混じって静かにねぶたのパフォーマンスを見ていた。最近中国で青森観光がブームらしいよと言うと、何もないのに何しに来るんだろうねと言っていた。子供にいつか本物を見にいけたらいいねと言ったら、母が、その場合には普通にツアーで申し込むのがいいでしょうねと言った。母と故郷の距離は大きく延びているけれど、咄嗟のときにはぱつんと縮んで体から切り離せなくなる。祖父母の家に向かう車から左側に見える夏の青森湾の穏やかな水面を今も思い出す。乗り物酔いをしやすかったので窓を開けて海からの風を顔に浴びていた。青森という場所はいずれ私にとっても何もない田舎になってしまうのだろうが、だから行く必要があるのかもしれない。
ラクーアで観覧車に乗った。乗る前の記念写真は私と子供と母の3人で、案外この組み合わせの写真はなかった。母は写真が嫌いで、みんなで出かけても写らないように離れていた人だったのだが、孫が生まれていろんなテーマパークで記念写真を撮ることになり、観念してちゃんと写真に入るようになった。いいことだと思う。
帰りが遅くなって、家に着いて急いで風呂、洗濯、ゴミ出しと幼稚園の持ち物の準備をして寝た。子供の寝息は眠りの分水嶺を越えると深くなる。それまでは私もそばにいることにしている。

3月11日
朝は眠くて二人で甘えてダラダラした。幼稚園に送ったあといつもの喫茶店でモーニングにして、帰ってビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』を見ながらウトウトした。好きな映画だと思った。また今度見なおす。遅いお昼をいつもの蕎麦屋でとり、クリーニング屋で受け取りをして帰ろうかと思ったが、私の前に両手に大きな袋を下げた人がいて、時間がかかりそうだったので時間を潰すことにした。そういえばその並びに昔から小さな喫茶店があって、気になってはいたのだが、いつも妙齢の女性がカウンターでだべっているので一見で入りづらく通りすぎていた。今日もどうしようかなと思いながら横目で店内を見ながら一度通りすぎて、でも今日は入ろうと決めて初めて入った。店内にはお客さんとして近所のスナックのママが2人いて、マスターもおばあちゃんだからやっぱり私は場違いだった。ブレンドコーヒーは美味しかった。少ししたらまた別のおばちゃんが3人入ってきて、中にいたお客のママの一人に「誕生日おめでと〜!久しぶりです〜!」とか言って花束を渡していかにもスナック的な大賑わいになり、そのまま私の背中側のテーブル席について盛り上がり始めた。私は間違いなく場違いだったけれどじっと風景の一部になろうと努めてコーヒーを啜り、飲み干したら水を啜った。後ろのグループにはタイの大麻や薬物の事情にやたら詳しい人がいてタイの警察のことを詳しく話していた。おしゃべりというのは自分の他愛なさを露出し、その他愛なさを別の他愛ない情報で覆って他愛のなさを交換しあう社交であり、高度なコミュニケーションである。何十年もその修練を積んだ人のおしゃべりはすごい。いつまでも続く。いつまでも続くのに強度は低く、しかし強弱のリズムが大きくついている。私なんかは15分程度で疲れてしまうけど、この人たちは何時間も続けられる。にもかかわらず終わらせるのは一瞬で、すっぱりと切り上がる。このエリアには夜のお店と昼のお店があるのだなと思った。いつもの喫茶店とはまた別のかたちのお店でよかった。今日は個人店ばかりハシゴした。

テレビにワイドショーがついていて、何度も震災の黙祷の映像が流れた。能登でも黙祷をしていた。

『イギリス人の患者』。20世紀は多くの戦争を生き残った人のための小説が書かれた。死者を思って書かれ、生存者に読まれる。今も戦争があり、災害がある。

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