2022年4月6日:『生活考察』と料理と病院受診

本棚の扉は文庫や新書が入る棚になっていて、扉を開けると奥の棚と扉裏の棚で三面鏡のようになる。何を読もうかなと眺めて目に止まったのが昨年末に買ったきり眠っていた雑誌『生活考察』のvol.8で、なんとなくこれだと思って手にとった。初めて買った雑誌だったが、たしか柴崎友香の名前に惹かれたのだったと思う。目次を見たら滝口悠生のコメントのようなものも編集人の記事に出てきていたから、これも買ったときの目当てだったのだろうと思った。

リュックの中には昨日読んでいた精神科関係の勉強のための本3冊が入っていて、そのうち2冊を出して『生活考察』と読みかけの『ダロウェイ夫人』を入れた。暖かかったから先日GUで買った長袖の開襟シャツと安い靴をおろしてでかけた。

役所の前に「春の交通安全運動開始式典」と幕が掲げられていて、白い制服を着た警察の楽隊と数十台の白バイ隊が整列していた。彼らはじっと始まるのを待っていたけれどスーツを着た役所の職員や取材に来た人はゆらゆらと揺れながら談笑していて、見る人と見られる人がくっきりわかれていた。

子供に見せたかったなと思った。白バイは初期に買ったトミカのひとつで、うちでは古参だが、本物はたぶん見たことがない。子供は保育園の散歩や帰りの車内で救急車やゴミ収集車を見つけると「お、きゅうきゅうしゃ」と言い、帰宅後私に「きゅうきゅうしゃみたの」などと報告してくれる。白バイが突然こんなにたくさん並んでいたら「おー!しろばいいっぱいいるねい!」と言うに違いないし、その後も「しろばいいっぱいいたねい」と1ヶ月は言っただろう。

消防の出初式は年明けの日曜日にやってくれるので子連れの家族がたくさん集まっていた。休日手当が出るんだろうと思っていたけれども、そういえば消防団の人もいたから彼らは完全に無償だったのかもしれない。そもそも休日出勤も嫌だな。そう考えると申し訳ない気持ちになるが、それでも土日だったら子供に見せられたのになという残念な気持ちはある。

8時45分。9時から式典が始まるんだろうなと思いつつさっさと通り過ぎた。私はクリニックを受診しなければならないのだ。

7時に起きて子供の保育園の準備をし、8時に妻と子供を見送ったあと洗濯機を回して洗い物をしたあと本棚を開き、家を出た。クリニックは予約制ではないので開店と同時に行かないと診察が午後になりうる。先月はダラダラしてしまって10時頃に到着したら診察が午後の1時になり、映画をみるつもりだったのが間に合わなくなった。だから具合の悪くないベテランは早く来院してオープン前から並ぶ。一応開門時間の前には並ばないでくれという注意書きがあるので私はオープン時間ちょうどを目指していく。そうするとだいたい10時半に診察が終わって11時に会計と調剤薬局が終わる。

途中の松屋でごろごろチキンカレーを食べて朝食にして、開門時間ちょうどに着いた。今日は比較的混んでいた日で、待合の席の最後のひと席になんとか座れた。やたらと質のいいソファが同じ方向を向いて三列並んでいて、みんなスマホを見て黙り、ジブリ映画の音楽がオルゴールバージョンでかすかに流れ続けている。ここから1時間、読書とTwitterを往復して過ごすのである。

『生活考察』は2010年に第1巻が発行され、7巻が2019年、8巻が2021年12月に出た。「「生活」をめぐる、さまざまな思考の断片を集めたエッセイ誌」と帯に書いてある。7巻が出たあとにコロナ禍に入り、2020年8月に『コロナ禍日記』というアンソロジー誌を出したらしい。今回の8巻には「『コロナ禍日記』、一年後」という企画もある。筆者はたくさんいるが、私の狭い知識でも円城塔、高野秀行、酉島伝法、春日武彦、岸本佐知子、速水健朗、樋口恭介、栗原裕一郎、小指、佐々木敦、柴崎友香などなかなかすごいラインナップであった。

円城塔、高野秀行が自分の料理を中心に書いていた。円城塔の独特なレシピにまつわる味と記憶の交錯するエッセイは軽い読み口のわりに平成初期の純文学のような雰囲気がある。高野秀行さんは跳ねるような文体でADHD気質の料理エピソードが楽しい。酉島伝法と岸本佐知子も一部料理の話。

栗原裕一郎が育児の話で、料理の話題もちょこっと。下のお子さんが生まれたときに一週間のワンオペ育児を経験したそうで、そのときの上のお子さんの年齢がちょうど今のうちの子と同じくらいで、大変身近に感じた。そろそろ「パパいや期」が来たりするらしいので戦慄している。

滝口悠生は編集人さんの「失われた”雑談”を求めて」という記事にちょこっと出てくる。滝口悠生もお子さんが生まれて奥さんの居室を作るために仕事部屋を移したらしい。柴崎友香はひたすら海外ドラマの紹介をしていたがこれがなぜだかおもしろかった。流れるような構成と語り口の妙なのだろう。

うちの子供が生まれた直後に新型コロナウイルスが話題になりはじめたが、私はその3月で退職して大学院生になる予定だったので早々に仕事を片付けて有給の消化に入り、そこで調子が本格的に崩れてうつ病の診断に至ったため(←「荷降ろしうつ病」のような側面があったのだと思う)4月から半年研究を休んで仕事も非常勤の外来診療だけに絞ったこともあって、実はコロナ禍の諸々の大変なマネージメントに直接関わることがなかった。コロナ禍で生活が一変してしまった、というよりも子供が生まれたと同時にうつ病をやらかし、さらに大学院生になったことで生活がまるっきり変わってしまったわけで、個人的にはそれは色々と大変だったのだがそれは病気という本当に個人的なことであって、新型コロナ関係でご苦労された方々には負い目を感じたりする。

かれこれ1年半以上かけて去年の11月からようやく調子がよくなってきて、そのあたりからコンスタントに普段の食事を作るようになった。かれこれ半年程度、ほぼ毎日料理をしている。最近は夕食を食べた直後にはもう翌日の夕食について考えていて、頭の中で手順を確認したりしている。これが結構精神衛生的によく、嫌なことを忘れて気持ちを切り替えられるので、いわゆるコーピングになっている。

そんなことを考えていたら診察の順番が回ってきて、調子は悪くないですが体重の微増傾向が続いていますと言ったら薬が減量になった。夏頃から大学院のほうが卒業に向けて忙しくなるのでその前に減量を試してみるのは非常に妥当な判断だと思う。やったね。

そういえば林哲夫の記事は病院の救急外来を受診したエピソードであった。受診というのも「生活」の一部だ。

思えば最近は勉強のための読書ばかりでブログもその記録を書いたりしていたのだが、こういう読書はゴツゴツとした概念を掌で確かめながらその地図を描くような作業で、文章の空間的な配置に自分の体を合わせる苦労がある。実は私は小説にも同じ感覚を持っている。一方でエッセイというのはなぜだかそういった感じがせず、文体が違っても文章のほうから私の体に浸透してくれるような感覚になる。小説が読めないことに劣等感を感じていた小学生のころから、群ようこや幸田文のエッセイを読んでいたのを思い出す。ちなみになぜか好きな作家には女性が多い。

そんなわけで最近しばらくやっていなかった日記をつけてみた。これから帰って夕飯を作る。昨日の夜仕込んだ塩漬けの豚バラ肉を使って、キャベツともやしで焼きそばを作る。キャベツをそろそろ使い切らなくてはいけないからだ。そのあとは佐藤亜紀の『喜べ、幸いなる魂よ』(角川書店)を読むと思う。

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