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許す・宥す・Allow その2

こんにちは。
私の住んでいるところは最近不安定な天気が続いています。
先週で私のトレーニングがちょうど折り返し地点に到達し、次週以降から後半に入ります。1600時間のトレーニングなので既に800時間を終えたということなのですが、かと言って、区切りがきたから急に何かが変わるというわけでもないので、引き続き、楽しく精進していきます。

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何度か書こうと思いつつ忘れてしまっていたのですが、えりえりこさん (https://note.com/erierieriko) という方が声がけをしてくださって、note上にあるアレクサンダーテクニーク関連の文章を集めた『アレクサンダーテクニーク共同マガジン』というのを作ってくれています。

https://note.com/erierieriko/m/m52458b094abb


実にたくさんの方がそれぞれの観点からアレクサンダーテクニークについて書かれていて、ありがたいことに私の書いたものをもいくつか追加してくださってます。私は自分の記事を自分で追加するのをなんとなく躊躇ってしまうので、見つけて加えていただいていることに感謝しています。

また、全てではありませんが、私もいくつも記事を読ませていただいてます。同じところで学んでいる/学んだ方が多いのかなー、などとも思っているのですが、実際のところどうなんでしょう。
学んでいる者のひとりである私は、それぞれのアプローチの違いなどを垣間見られる場所として、楽しませてもらっています。
これを読まれている方の多くは既にご存知なのかもしれませんが、もしご興味あれば、探索してみてください。

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さて、前回の最後に《次回に続く(予定)》と書きました。
自分で書いたことではありますが、折角なので、この話題について更に考えてみます。

前回:『許す・宥す・Allow その1』
https://note.com/ytatlab/n/n34d2cc3d8e3d

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前回のあらすじ


前回の文章では、橋本治著『黄金夜界』を読み直した際に、私が「宥す」と「許す」を読み違えていたことをタネに、それらの言葉の意味と本文で何が語られていたかを私なりに整理した。これは単純に私がアホだったという話である。

次に『ゆるす』という言葉の関連から、私が最近アレクサンダーテクニークのテーブルワーク(*1)を受けていた際に尋ねられた質問について、"allow"という言葉の意味を整理して、吟味した。

私がレッスン中に受けた元の質問は、

《Allowing, is it challenging for you?》

というものだ。
これを踏まえて、"allow"は「・・・を許す」「・・・を可能にする」「・・・を認める」という3つの意味を含んだ単語だということを確認した。
この質問を受けた時の私は、「"allow"ということそのものよりも、〈何を〉"allow"するかに気がつく方が大変だろ」と考えていた。
それはつまり、質問の答えは「・・・を許す」「・・・を可能にする」の「・・・」に何を代入するか次第だろう、ということであり、それだと「質問に正面から答えていることにならない」ように思い、考え直すということをした。
この「・・・」に何かを入れる前には、まず、自分にある「何か」に気がつく必要がある。私はこの気づきを awareness と書き、この質問の本意は awareness とは別なところにある、と前回の文章の最後でまとめた。

では、その別なところとは何か?
私はそれをinhibitionと書いた。

これまでの整理を踏まえて、"allowing"というのを私なりに日本語にすると、『「・・・を可能にする」を実現しようとする』となる。
ところで、「・・・を可能にする」とは何か?
これは「・・・をする」とは違う。
後者は実際の行動を指しているが、前者はそうではないからである。

この「可能にする」をしようとして、実際にはそれを「してしまう」ということは、とても起こりやすい。
自分がレッスンを受ける側である時のみならず、私がレッスンをしている側であっても、よく出会う。

そのため、この質問で想定されている"allowing"の難しさとは、「・・・を可能にする」が、「・・・をする」にならないようにする、ということにあると考えた。
そして、そうならないために必要なことが inhibition である、と考え、これは inhibition についての話なのだ、と結んだ。

*1 ライダウンワーク lie-down work という呼び方のほうがより一般的かなと思いつつ、レッスンはテーブル(広めのマッサージテーブルのようなもの)で受けていたので、ここではテーブルワーク table work と書いた。

Inhibition とは何か?


ところで、私がここで書いている、"inhibition"とは何なのか?
前回の文章は、これが欠けていたので最後は私が一人で納得する、意味不明なものになっていたと思う。
まずは、"inhibition"について整理する。

"Inhibition" は、アレクサンダーテクニークの中で、もっとも重要な原理・行動の1つであり、ざっくり言うと『ある刺激に対して反応する前に立ち止まること』を指す。刺激と反応をダイレクトなつながりを断つ、というようなことなのだが、これはどういうことなのか?これにどんな意味があるのか?

まずは、F. M. アレクサンダー自身がこれをどう説明しているかを見てみる。
アレクサンダーは、1923年に出版した"Constructive Conscious Control of the Individual" [1] の中で、inhibition と volition という言葉を対置し、次のように書いている。

《The words “volition” and “inhibition” are in constant use in these pages and I wish at this point to make it clearly understood that they are used merely as names for two respective acts, volition standing for the act of responding to some stimulus (or stimuli) to psycho-physical action (doing), and inhibition standing for the act of refusing to respond to some stimulus (or stimuli) to psycho-physical action (not doing). In other words, volition is used to name what we intend to do, and inhibition to name what we refuse to do — that is, to name what we wish to hold in check, what we wish to prevent.》

F. M. Alexander "Constructive Conscious Control of the Individual" p. 91
(注:原文でイタリック体の部分は太字に変えて引用した)

一文が長く混み入っているのは、アレクサンダーの文章の特徴である。
慣れないと読みにくく感じるだろう。しかし、これはまだ読みやすい方だと思う。

"volition"という言葉は、辞書上では、「決断を下す力 the power to make your own decision (*2)」を意味する。
アレクサンダーはここで、"volition"を《何かしらの刺激に対し、心身による(*3)行動によって反応する行為》と定義し、これを「すること doing」と言い換えている。

一方、"inhibition"の方は、《何かしらの刺激に対し、心身による行動によって反応することを拒否する行為》と定義し、「しないこと not doing」と言い換えている。

また、すぐ後に続く、アレクサンダーの言い換えを参照するならば、
"volition"は、「するつもりのこと」「したいという意思」を指す言葉であり、"inhibition"は、「するのを拒むこと」「するのを止めたいと思っていること」「したいという意思をチェックし、止める能力」を指す言葉、となる。

私がアレクサンダーテクニークで特に重要で、かつ、面白いと思う点は、
このテクニークが"volition"ではなく、"inhibition"に重きを置いている
というところである。

アレクサンダーテクニークは、「既にしてしまっていることをいかにして止めるか、変えるか」というアレクサンダー自身の経験に由来している。
その中で、アレクサンダーは「してしまっていることを止める」ことなしに、「これをしたい」を実現することはできないことを身をもって経験した。
こう書くと、ここで指摘していることがあくまでもアレクサンダー自身の個人的なことに思えるかもしれないが、その後の経験で、アレクサンダーは、これが個人の問題に留まらず、多くの人に見られる普遍的な問題であることを発見した。
アレクサンダーは1932年に発表した"The Use of the Self"[2]の中で次のように書いている。

This shews how confident I was, in spite of my past experience, that I should be able to put into practice any idea I thought desirable. When I found myself unable to do so, I thought that this was merely a personal idiosyncrasy, but my teaching experience of the past thirty-five years and my observation of people with whom I have come into contact in other ways have convinced me that this was not an idiosyncrasy, but that most people would have done the same in similar circumstances. I was indeed suffering from a delusion that is practically universal, the delusion that because we are able to do what we 'will to do' in acts that are habitual and involve familiar sensory experiences, we shall be equally successful in doing what we 'will to do' in acts which are contrary to our habit and therefore involve sensory experiences that are unfamiliar.

F. M. Alexander: "The Use of the Self" p. 31-32
(イタリック体を太字に変更して引用した)

この文章の冒頭の"This"は、「自分が〈こうしよう〉と新たに思ったことをしようとしたがうまくいかなかった経験」を指している。

"idiosyncrasy" というのは「一風変わった習慣や振る舞い、特徴 a strange or unusual habit, way of behaving, or feature that someone or something has」(*5)という意味で、引用した文章で、アレクサンダーは《「しようと思った新しいことをうまくできない」のは、自分だけがそうなのだと思っていたのだが、これは万人に共通したことだったことに気がついた》、と書いている。

そしてその後の文章は、《既に習慣になっている、身に馴染んだことならば〈したいと思ったこと〉ができるからと言って、習慣になっていることとは異なる、身に馴染んでいない〈したいと思ったこと〉もできる思う》のは《間違った考え delusion》なのだが、《皆、そのように考えている practically universal》と書いている。

すごく当たり前のことを書いているようにも思える。
いくら〈したいと思ったこと〉でも、これまでに経験のないことをしてうまくいくとは限らないし、うまくいくとは思えない。
なぜ、できると思ってしまうのだろう?

注意しておきたいのは、このアレクサンダーのエピソードは、「既にしてしまっていること」を変えるために「新しく〈こうしよう〉と思ったことをやろうとした」が、うまくいかなかった、と言う話だというところだ。
アレクサンダーがしようとしたことは、パッと見、すごく簡単なことだった。後ろに引いてしまっている頭を前に出す、ただそれだけである。これならできる、と思ってしまっても無理もないだろう。
しかし、結果は上記の通り、うまくはいかなかった。

この「うまくいかなかった」を「うまくいった」に変えるために出てくるのが "inhibition"であり、この"inhibition"こそが鍵なのである。

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"inhibition"とは何か、について整理しているところだった。
アレクサンダーの説明とは別の説明の仕方も見てみることにしよう。

この"inhibition"について、アイルランドのアレクサンダーテクニーク教師であるRichard Brennanはもう少しシンプルに以下のように書いている。

Inhibition, a vital component of the Technique, is simply when we pause first before reacting instinctively in any given situation.

Richard Brennan "The Alexander Technique Manual" p.45 [3]

"instinctively"という言葉はなんとなく「本能的に」と取りがちだが(私だけのidiosyncrasy?)、実際には、"in a way that is not thought about, planned or developed by training" (*4) という意味であり、「考えなく」「あらかじめ決めていたのではなく」「訓練によって獲得したのではない」やり方で、ということを表している。
つまり、ここでは、"inhibition"とは、

《何かしらの状況に特に考えなく反応する前に、まず間を取ること》

と書いている。

改めて思い出しておくと、アレクサンダーは"inhibition"を《何かしらの刺激に対し、心身による行動によって反応することを拒否する行為》と説明していた。
アレクサンダーの言う《反応することを拒否する》ことと、Richardの言う《特に考えなく反応する前に》は、同じことを指している。
その上で、RIchardは、アレクサンダーの言う《反応することを拒否する》ことによって生まれる《間》に言及している。
ここでRichardは《反応することを拒否する》ことによって生じるものに触れている。《反応することを拒否する》ということは、つまり、いっとき何もしない、ということであり、その空白を《間をとる pause》という時間に関する形で表現している。
つまり、"inhibition"とは時間に関わる行為だと言っているのである。

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最後に。
これは余談なのだが、日本語のアレクサンダーテクニーク関連の本などを読むと、inhibition を「抑制」と訳しているのをよく見る。
辞書的には間違いではないのであろうが、私は、「抑制」という言葉はアレクサンダーテクニークのinhibitionの訳語として適していないと考えている。
なぜなら、日本語の「抑制」という言葉は、「おさえつける」というニュアンスから逃れられないと感じるからだ。「inhibitionってそういうんじゃないでしょう」と思うである。
そのため、読みにくいだろうと思いつつ、私の文章では inhibition を日本語にせず、そのまま英単語で書いている。そのうち適切な日本語を見つけて採用できれば良いのだが、個人的には普段からinhibitionと言っていることもあり、あまり違和感はないので、このまま通すかもしれない。

(*2) https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/volition

(*3) ここで「心身による」と書いているのは"psycho-physical"という言い方の便宜的に訳したものである。アレクサンダーは、人間を「精神 pyscho」と「身体 physical」と分けることはできない、それらは1つのものであると考えていたため、このような用語を使っている。この"pyscho-physical action"というのは、煎じつめると「(人間の・自分の)行動」という意味になると思う。しかし、ただ「行動」と書くと、「目に見えている動き physical action」のみを想定して読まれることがあるため、このように訳した。アレクサンダーは、そういう意図も含めて、"pyscho-physical"と明示的に書いているような気がする。

(*4) https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/instinctively
(*5)
 https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/idiosyncrasy

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私はなんの話をしていたのか?


話が随分と長くなってしまった。
ここまでinhibitionについて書いてきたわけだが、私はそもそもなんの話をしていたのか?

私が書いていたこと、それは、"allowing"の難しさは、

「・・・をする」をしてしまう前に、立ち止まって、「・・・を可能にする」を実現する、

というところにあり、そのためには"inhibition"がポイントなのだ、ということだった。
ここまでは、前回の文章の最後に私が一人で納得していたことである。
そして、今回は私が唐突に触れた"inhibition"について、それが何かを整理した。

ここまで書いてようやく気がついたのだが、私はどうやら〈「"alllowing"が難しいか?」を問われるのはなぜか?〉という話をしたかったようだ。
元々の質問にちゃんと答えたい、というのではなく。

それはつまり、〈「"alllowing"が難しいか?」を問われるほど、"allowing"が難しいものになっているのはなぜか?〉ということである。
そもそもこういう質問が出るのだから、"allowing"は多くの場合にchallengingなことである、という前提があるはずだ。
では、なぜそうなのか?それを考えたかったのである。

また、ここまで特に触れてこなかったがそもそも〈"allowing"はなぜ必要なのか?〉という質問だって出てくる。

なので、ここからは、これらについて、考えてみようと思っている。

次回に続きます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献

[1] F. M. Alexander: "Constructive Conscious Control of the Individual", Mouritz (2004), (first published in 1923 in USA)
[2] F. M. Alexander: "The Use of the Self", Orion Spring (2018), (first published in 1932 in GB)
[3] R. Brennan: "The Alexander Technique Manual", Eddison Books Limited (2017), (first published in 1996)

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