『局所性ジストニアを見つめる』 8. 局所性ジストニアと感覚
『局所性ジストニアを見つめる』もそろそろ終わりが見えてきた感じがしている。書き進めるほどに「これでいいのか」と疑問に思うこともあったが、とりあえずここまできた。何よりの収穫は、書き始める前にぼんやり思い描いていたのとは違うところに着地しそうなことだ。こういう予想外はとても嬉しい。少なくとも私にとってはこの文章を書くことにすごく意味があったし、アレクサンダーテクニーク観を改めて見直す良い機会になった。メモを取っていてよかった。実は腹落ちするほどの実感を持っていなかったのか、私は忘れていたのだ。アレクサンダーテクニークは局所性ではなく全体性を大切にするメソッドだということを。私とテクニーク、私と楽器とのこの3年間の付き合いがそれを実際に示していた。
アレクサンダーテクニークを「無意識の意識化」のメソッドだと何度も繰り返し紹介してきた。そして、この「無意識」とは自分が気がついていない習慣である、と書いてきた。
では、習慣とは何か?習慣とは繰り返し行っている行動のパターンのことだ。行動と書いたがこれは何も物理的・身体的な行動だけに限らない。思考もある種の運動だと私は考えている。繰り返し起こる思考のパターンや感情・情動のパターンもまた習慣である。
このパターン化された行動がなぜ起動するのか。それは私たちがそのスイッチが押されるための何かを感じ、受け取るからである。アレクサンダーテクニークでは、習慣を「刺激」に対する「反応」だと考える。習慣は特定の刺激に対する自分のパターン化された反応なのだ。
例えば、鉛筆の持ち方。これは鉛筆という刺激に対する反応であり、もっと言えば、鉛筆を持とうという自分の意思に対する反応である。刺激はモノに限らない。自分の意思や思考もまた刺激となる。
姿勢もまた刺激に対する反応である。姿勢もまたパターン化された行動だからだ。座っている時の姿勢は椅子という刺激に対する反応であり、座ろうという意思に対する反応である。立ち上がるという動作も同じだ。
性格や精神・感情的な傾向も同じである。特定の状況で私たちは特定のパターン化されたやり方で振る舞ってしまうことがある。うまくいく時もあれば、全く裏目に出ることもある。知らず知らずのうちに同じパターンの反応を繰り返し、苦い思いをし続けることもある。これが自分の習慣から生じたことかもしれない、と考えが及ばないことがある。
私たちは自分でも気がつかず実に様々なたくさんの刺激に反応している。
それが悪いという話ではない。そういう習慣には合理的なもの、生活を便利にしてくれるものが多い。習慣自体に罪はない。だが、それがあまりに当たり前になってしまっていると、いざトラブルが起こってしまったとき、そこに気がつかず、問題の根本がわからなくなってしまうことがある。これが物事を厄介にしている。
上に書いたような様々なことをそもそも「習慣」や「反応」だと考えていないことも多いだろう。私はこう捉え直すこと自体にメリットがあると思っている。「習慣」や「反応」だと思えば、それを変えることも可能だと思えるからである。全く固定された不変のものではないのだ。
内から・外からやってくる刺激そのものを変えることは簡単ではない。もちろん、刺激を避けることはできる。だが、予期せぬところから急にその刺激が来ることだってある。そう考えると、本当の意味で変えられるのはむしろ自分の反応だけなのではないだろうか。
アレクサンダー自身はアレクサンダーテクニークを以下のような言い方で説明したことがある[1]。
私はこの説明の仕方がすごく好きだ。
ここにアレクサンダーテクニークの本質がある。
局所性ジストニアもまた、刺激に対する反応である。私はそう考えている。同時にそれはその症状を加速させる刺激になりうる。私にとって、左手小指はこれ自体が「刺激」であり「反応」なのだ。楽器を持つという意思、演奏するという意思に私が陰に陽に反応し、その結果として、事が起こる。そして、起こったことの記憶が刺激になって、更なる反応を加速すると言うわけだ。
私は最近もまだ演奏中に左手小指の出番が来そうになると「くるぞくるぞ」と身構える自分を感じる。左手小指を避けるように右手の小指を使おうとする自分を感じる(これは少しずつ減ってきた)。これらが全て刺激に対する反応である。その前にはおそらく「うまくやらないと」「なんでできないんだ」という考えに対する反応があった。
いずれの場合でも、問題の1つは自分のその反応に気がついていなかったことだろう。特に、刺激に対して自分の身体が具体的にどう反応しているかが分からなくなっていたことが大きい。
局所性ジストニアを抱えている人々には深部感覚の不調が見られるというエビデンスが報告されている[2]。そして、この感覚の不調が運動の不調にも影響を与えているとする説があるようだ。この論文を読んだ時、「これか」と思った。この感覚を取り戻すことが重要だと私は思っている。
深部感覚 Proprioceptionとは、自分の体の部位が空間的にどこにあるか、どのように動いているかを感じ取るための感覚である[3]。私たちはまぶたを閉じたままでも自分の手や足がどこにあるのか、どのように動いているかを言うことができる。それはこの感覚のはたらきである。また、筋肉がどれだけ緊張しているか、どれくらいの力を使っているかを伝えるのもこの感覚である。
アレクサンダーはこの深部感覚の不調や狂いに警鐘を鳴らしていた人物である。彼が1923年に発表した著作『Constructive Conscious Control of the Individual』は一冊丸ごと、この深部感覚の不調がもたらしうる問題の分析とそれに対するアレクサンダーテクニーク的な対処について書かれている[4]。アレクサンダー自身は感覚認識 Sensory Appreciationという言葉を一貫して使い、何かを学ぶこと、幸福などのテーマでこれについて語っている。少々わかりにくいのだが、この感覚認識と深部感覚は同じものを指していると私は理解している。余談だが、アレクサンダーの著作の中では、私はこの本が一番好きだ。
この深部感覚の不調はとても気が付きにくいが、確かにある。そしてそのために、私たちは実際に自分が何をしているか、何が起こっているかを勘違いしていることがあるのだ。アレクサンダーテクニークの言葉ではこれを「誤った感覚認識 Faulty Sensory Appreciation」と言う。
自分の反応に気がついていなかった・気が付けなかったのはここに原因の1つがあると私は考えている。
ここまで私の経験から局所性ジストニア(的なもの)とアレクサンダーテクニークの関係を語ってきた。
わかったのは、アレクサンダーテクニークは間接的なやり方で私の改善の支えになってくれていたということである。とりわけ大きいのが、この深部感覚の不調の回復だったと私は考えている。私の経験だけで断言はできないが、これはアレクサンダーテクニークが局所性ジストニアの改善に大きく寄与できる部分かもしれない。そう思っている。
参考文献
[1] F. M. Alexander: "Aphorisms", Mouritz (2000)
[2] L. Avanzino et al.: "Proprioceptive dysfunction in focal dystonia: from experimental evidence to rehabilitation strategies", Front Hum Nuerosci. (2014) 8 p. 1
[3] U. Proske et al.: "The proprioceptive senses: Their roles in signaling body shape, body position and movement, and muscle force", Physiol. Rev. (2012) 92 p. 1651 - 1697
[4] F. M. Alexander: "Constructive Conscious Control of the Individual" Mouritz (2004) (originally published in 1932)