大型類人猿はひとなのか、ひとでないのか(2)「ほとんど人間」であるという宣伝
前回の記事では、大型類人猿の合成画像を用いた研究を紹介し、擬人化して表現することが、それを観る人々に大型類人猿やその危機的状況について誤った認識を与えかねないことから、そのような大型類人猿の「擬人化」はかれらの保全にとってマイナスであると述べました。
https://note.com/ytake7011/n/n657dba71fcfc
大型類人猿の「擬人化」への反対・抗議
私が代表世話役をつとめるSAGAでも、この問題について繰り返し抗議し、適正化を求める発信してきました。そして、動物園や研究者はチンパンジーをはじめとする大型類人猿の「本来の姿」を発信すべきであると主張し、またそれを推進してきました。
大型類人猿「本来の姿」を発信する努力
数年前には、動物園のチンパンジーの飼育者の方々を中心に、SNSで「#チンパンジーはチンパンジーらしく」というハッシュタグを用いて、大型類人猿のより適切な「見せ方」について、連帯を広げるアピールがなされました。じっさい、日本の動物園における大型類人猿の展示方法はこの30年間で大きく変わりました。飼育個体への福祉的配慮が大幅に向上しただけでなく、展示を通じて野生大型類人猿に対する理解が深まるようさまざまな工夫がなされています。
私は基本的にはそうした最近の動向をよいことで、もっと推進すべきだと思います。しかし、その一方で、あっけらかんと、普遍的真理であるかのように「大型類人猿の擬人化は悪いこと」と主張することに対して、いささかひっかかりを感じてもいます。
大型類人猿は「ほとんど人間」という発信
そのひっかかりとは、「現に大型類人猿はヒトに近縁でヒトに似ているではないか」、そして、「我々は彼らの価値を宣伝するために大型類人猿がいかにヒトであるかを宣伝しているではないか」というところにあります。
科学的真理としての「ヒトとの類似性」
私が霊長類の研究と保護に携わるようになってからの30年、大型類人猿の「擬人化」が右肩下がりに時代遅れになっていった一方で、科学者たちは大型類人猿の「ヒトとの類似性」をより強調し、それを積極的に発信してきました。たとえば、大型類人猿の分類が変わりました。かつて「オランウータン科(Pongidae)」だったのが、いまでは「ヒト科(Hominidae)」になりました。
分類の変更は第一義的には研究によって明らかになった大型類人猿とヒトの系統関係を反映したものですが、それに加えて、ヒトと大型類人猿の「類似性」を示す事実が多く明らかにされてもきました。曰く、
チンパンジーとヒトのDNAは98%以上同じである。
道具を使う、文字を覚えられるなど、知能が高い。
社会性が高く、ときには人間顔負けの社会的駆け引きを行う。
知能だけでなく「心」も人間に近い。喜怒哀楽やさまざまな感情をもつ。
などです。
「ヒトと似ている」から保護しよう、という論理
科学的事実は科学的事実であって、それ以上でもそれ以下でもありません。だから、研究によってヒトと大型類人猿の類似性が明らかになること自体は、よいことでもなければわるいことでもありません。しかし、私も含め、大型類人猿の保護(や福祉)に関わる者たちは、この「ヒトとの類似性」をかれらの価値(本来的価値)の重要な要素として強調し、「ヒトとの類似性」を根拠に、大型類人猿は人間に近い扱いをすべきである。食べてはいけない、狩ってはいけない、苦痛を与えてはいけないなどといった主張を推し進めてきました。なかには、大型類人猿に部分的に人権を与えるべきであると主張する人もでてきました。
「類似性」と「擬人化」の違いはわかりにくい
大型類人猿がヒトに類似しているという科学的事実と、大型類人猿を擬人化して表現することはまったく異なります。そして、擬人化には保全上の悪影響があることも(ほぼ)明らかです。だから、科学者がヒトとの類似性を報告する一方で擬人化に反対することは矛盾した行いではありません。
擬人化はヒトとの類似性をねじまげた表現であるといえるので、ヒトと似ているからこそ擬人化には敏感に反応し、厳しい目を向けるべきかもしれません。前回記事で問題提起した画像生成AIがチンパンジーの擬人化を禁じる一方でパンダのそれはスルーしてしまう問題への答えは、おそらくそういうことなのでしょう。
でも、それって、ちゃんと丁寧に説明しないとなかなか伝わりにくいことではないのかと私は思うのです。
もしかしてそう考えるのは私だけかもしれませんが、ある動物が「人間に似ている」ならば「人間のように扱おう」と思うのが自然ではないでしょうか。その「人間のように扱おう」と思う人が「服を着せてあげたい」とか「人間のお家みたいな部屋で飼ってあげたい」という考えにつながったとしても、頭ごなしに「それは間違っている」と言うべきではないのではないか、と思います。
しかし、伝える側の私たちには、この「人間に似ているから擬人化してはならない」という論理のわかりにくさの自覚が足りていないように思われます。たしかにヒトと大型類人猿は似ている、しかしだからといって服を着せるのはちょっと違うんだよ、というのをセットで伝えていかなくてはなりません。
「擬人化」と「本来の姿」の微妙な境界
それに、実際にヒトとよく似ている以上、「大型類人猿の本来の姿を示すこと」と「あたかも人間であるかのように示すこと」の境界はけっこう曖昧だとも思います。そして、その境界については、私たち専門家の間でも意見の一致をみていません。
たとえば、2001年公開のリメイク版「Planet of the Ape/猿の惑星」(監督はリメイクでなくリ・イマジネーション版と言ってるそうですが)や2005年公開のリメイク版「キングコング」などは、そこで描かれるチンパンジーやゴリラの描写に、大型類人猿研究の最新成果をふんだんに取り入れています。これらの映画に対して、チンパンジー・ゴリラ研究の日本における第一人者の方が肯定的な評価を与え、さらにそれを積極的に表明しました。
でも、どうなんでしょうね。映画としての面白さに対する評価は別として、あれらの映画が「大型類人猿の本来の姿」を反映したものとするか、それとも「擬人化」とするかと問われたら、少なくとも私は「擬人化」と答えます。「なんだかそれっぽい擬人化」です。よく勉強しているとは思うけど、擬人化は擬人化です。これを「よいもの」として宣伝しちゃうと、「本来の姿」と「擬人化」の境界はますますぼやけてしまって、一般の人々に伝わりにくくなるのではないかと思います。
政治的に正しい擬人化?
さらに、一部のチンパンジー研究者は、ショーなどによる擬人的表現に反対意見を積極的に表明しつつ、自らはもはや微妙な境界ともいえない、はっきりした擬人化を積極的に多用しています。その人たちは、チンパンジーを数えるのに「ひとり、ふたり」という数え方をします。そして、性別をオス/メスと言わずに「男性/女性」といいます。さらに、自分たちが飼育しているチンパンジーの「誕生会」を行い、その風景を写真で公開します。福祉向上のための資金を募るのには「ハロウィンパーティ」の画像を用いていました。
私には、これがなぜ許容されるのか正直さっぱりわかりません。擬人化がだめだというならだめでしょう。それとも、よい擬人化とわるい擬人化があるのでしょうか。そうだとしたら、話はまるで違ってきます。擬人化がだめだとはもはや主張できません。どの擬人化がよくてどの擬人化が悪いのかという規準を示す必要があります。そんなことでは、わかりにくさは増す
ばかりです。
そして、「ひとり・ふたり」と数えたり「男性/女性」と呼ぶことが、人々の大型類人猿に対するイメージにどのような影響を与えるのか調べたという話も、聞いたことがありません。
さらにいうと、チンパンジーの性別を「男性/女性」とするのは科学的にも問題があります。学術用語としての「オス/メス」は生物学的性別を意味しますが、日常語としての「男性/女性」にはジェンダーの差異を含みます。つまり、チンパンジーを「男性/女性」とよぶのは、チンパンジーの社会おいても性差に関する文化的構築や本人の性自認が関わりを持つ、ということを含意します。しかし、そんなことはこれまで一切科学的に証明されたことはありません。こんなのは科学的でも何でもない、ただの自己満足の言葉遊びに過ぎません。自分たちの擬人化はよい擬人化で、他人のやる擬人化は悪い擬人化だというのだとしたら、それはご都合主義でしかないでしょう。
おわりに
今回は、少しヒートアップしすぎたかもしれません。しかし、研究者による「擬人化」については、いつかきちんと自分の考えを述べる必要があると思っていました。私のほかにも、専門家・非専門家を問わず、違和感を感じていた人がいるはずだとも思っています。権威におもねることなく、必要な声は、あげなくてはいけません。今回はそういう覚悟をもって発信します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?