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♯44 絶好調のダビデはほんとうに絶好調か/サムエル記下第8章【京都大学聖書研究会の記録44】

【告知】
京都大学聖書研究会は2024年12月17日(火)にクリスマス講演会を開催します。以下の要領です。どなたでも参加できます。

日時 2024年12月17日(火)15:00(1時間程度)
場所 京都大学本部構内総合研究2号館4階 AA401(第一講義室)
演題 解くことをめぐって
講師 高橋由典

なおこの講演会ののち、聖書研究会自体はしばらく休み、年明け(2025年1月初旬)に再開します。この記録もしばらくお休みします。

【2024年12月10日開催】
サムエル記下第8章を読みました。この箇所は二つのパートに分かれていて、新共同訳では、それぞれ「ダビデの戦果」(1-14節)「ダビデの重臣たち」(15-18節)という小見出しがついています。第一のパートは文字どおり、王となったダビデの戦勝の記録が描かれ、第二のパートでは、ダビデ王国の実務を担った人々の名前が挙げられています。全体的に公的戦史とか人事記録のような筆致で描かれていて、物語性に乏しい。味気ない。いくら丁寧に読んでも、ああ、そうですか、といった反応以上のものを引き出すことは難しそう。実際、聖研の話し合いでも、何をどう受けとめたらよいのかについて、当惑の声が続き、そのまま終わってしまった感があります。困った、困った、といった感じです。

今回の方針

という次第で、ここで聖研の話し合い内容をそのまま再現してもあまり意味がない。どうしようか。

私たちの会では、2年半ほど前からサムエル記を読んでいます。ダビデはサムエル記上16章に初めて登場。「血色がよく、目は美しく、姿も立派」(上16:12)な青年でした。その後サウルとの闘争を経て、北(イスラエル)と南(ユダ)を統合する王となり、いまに至るわけです。今回のテキストの後もダビデ物語は続きます。彼の死が描かれるのは、サムエル記の次の文書列王記上2章においてです。この長大なダビデのライフ・ヒストリーの中に今回の箇所を置いてみたら、どう見えるか。そんなことを考えます。むろん、これから先に起きる話を持ち出してしまっては面白くない。「ダビデ論」という論文を書くわけではないからです。その作業は専門家にお任せし、私たちは、いかに臨場感豊かに聖書を読むかだけ考えたい。登場の時点から今回の下8章の時点までの情報をもとに、ダビデの人生を考えると、今回のテキストは何を語っていることになるか。今回の聖研でのみなさんのご意見を参照しながら、そのことを考えてみようと思います。

苦肉の策?ウーム、たしかに。しかし瓢箪から駒ということもあります。そのことを期待しつつ、やってみようと思います。

ダビデの戦果

まず最初に下8章に何が書かれているかを確認します。第一のパート(1-14節)は、戦争の話です。度重なる戦争におけるダビデの勝利が、語られています。まずペリシテ(1節)、それにモアブ(2節)との戦い。宿敵ペリシテとの戦いについては、上4章以来度々言及があります。直近のものは、下5章です(5:17-25)。今回のものはその続き。モアブも旧約聖書では度々姿を見せます。死海の東側の地域に住んでいたようです。サムエル記上では、サウルに追われたダビデが、両親の身の安全を心配し、両親をモアブの王に預けたという出来事が描かれます(上22:3-4)。ダビデとモアブ王の友好関係をうかがわせるような事件です。しかし今回、ダビデはそのことにまったく頓着しない様子で、モアブの人々を殺害します。「縄二本分の者たちを殺し、一本分の者は生かしておいた」とのことです。素直に読むと、大人(縄二本分の背丈)を殺し、子ども(縄一本分)を生かしたと読めますが、三分の二(縄二本分)を殺し、三分の一(縄一本分)を生かしたとする解釈もあるようです。ともかくこのことを契機にモアブはダビデ王国に隷属することになった。

次に北方のアラム人との戦争です。アラム人勢力としてツォバとダマスコの名が挙がっています(3-7節)。ダマスコは現在のシリアの首都ダマスカス、ツォバは、その北方に位置していたようです。ツォバの王(ハダドエゼル)がユーフラテス川に覇権を再確立しようとした(その間の事情不明)。そのタイミングを見計らって、ダビデがいわば背後から奇襲を仕掛け、ツォバの戦力を無力化した。ダマスコはツォバの援軍として参戦したが、返り討ちにされ、ダビデ王国に隷属することになった。ダビデは両者から金、青銅を略奪。

この様子を見ていたハマトの王トイがダビデの戦勝を祝って金、銀、青銅の品々をダビデに献呈(9‐11節)。ハマトは、ツォバと交戦中だったとのこと。敵の敵は味方ということか。あるいはダビデの快進撃に恐れをなしたか。ハマトはダマスコやツォバよりもさらに北、現在のハマを中心とする勢力だったらしい。ダマスコとかハマとか、いま現在、アサド政権崩壊(!)後のシリアのニュースでよく見る地名です。

次いでダビデは、死海の南側一帯を牛耳るエドムを討ち、1万8千人を殺したという(13‐14節)。その結果、エドムもまた(モアブ、ダマスコ同様)ダビデに隷属することになり、イスラエルの守備隊がエドム全土に置かれたという。

このように、ペリシテ、モアブ、ツォバ、ダマスコ、エドムを撃破し、ハマトとは友好関係を結ぶことになった。ほかにも、戦利品を獲得した相手方として、アンモン人、アマレクの名前も挙がっています(12節)。まさに破竹の勢いのダビデです。ダビデはもともとゴリアトとの対決で名をあげた武人でしたが、その武人ダビデの能力が全開、といった感じです。絶好調のダビデです。

ダビデの重臣たち

続く15‐18節には、まずダビデによる統治の総括として、ダビデが王として全イスラエルに対して裁きと恵みの業を行った、との指摘があります。善政(恵みの業)を行うだけでなく、自ら裁き手の役割も担ったということのようです。その後ダビデに仕える重臣たちの名前が挙げられています。弟アサエルの死の報復としてアブネルを殺害した(下3:27)ヨアブも、軍司令官として取り立てられています。エリから続く祭司の系列についても言及があり、エリの血統のほかにツァドクが付け加えられています。「アヒトブの子ツァドク」と記されているのは、ツァドクという新入り祭司をエリの血統に属することを示そうとする叙述上の工夫らしい(ATD旧約聖書註解7、110頁)。アヒトブはエリの孫であり、ダビデを匿ったあの祭司アヒメレク(上21:1-7)の父でした。

戦争と約束

ダビデについては、下7章の冒頭に、「主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎを」与えた、と記されています(下7:1)。対外状況はこれで安定したのですから、ふつうなら、ここからは国内統治に精力を注ぐ、ということになるはずです。ところがそうはならなかった。いま見たとおり、下8章は戦争の連続です。ダビデは実に精力的に、北方(ツォバ、ダマスコ)、東方(モアブ)、西方(ペリシテ、)南方(エドム)と飛び回って戦っています。絶好調のダビデ。なぜダビデは、(たとえば)これまで何の関係もなかった北方のツォバとかダマスコにまで足を延ばして戦うのか。その理由は聖書本文をいくら読んでも不明です。そこには何も書いていない。だからこのあたりのことは想像で補うほかないようです。聖研で出たみなさんの意見を参考にしながら、以下書いてみます。

ヒントになりそうなのが、預言者ナタンをとおして示されたダビデ契約です(下7章)。そこでダビデは、「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国をゆるぎないものとする」(下7:12)と言われたのでした。加えて、「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」(下7:9)とも言われた。このようなことを言われると、「外に目を向けず、国内統治に専念しよう」、とはならないでしょう。むしろ、ヤハウェがこう言うのならば、ここはひとつ打って出ようか、という気になる。それもやむを得ないような気がします。下8章(今回の箇所)に記されたダビデの快進撃は、このヤハウェの約束と関係している気がしてなりません。

エドム人1万8千人を打ち殺したとの記述の後、ダビデはそのことで「名声を得た」と記してあります(13節)。ダビデは偉大な武王であるとの認識が、当時の国際政治の舞台上に広まったようです。いま見たように、ヤハウェもまた、「名声」をダビデの武力行使への報償と宣言していました(「地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」)。ダビデは、エドム討伐によって、かねてよりヤハウェによって約束されていた「名声」を得たことになります。

ヤハウェゆえの戦争

ダビデはこうした約束を後ろ盾にして、自信をもって、北はユーフラテス川にまで届こうとする領域、東はモアブ、西はペリシテ、南はエドムまで勢力を拡大したのではないかと思います。と同時に、実際に敵を打ち破る経験を重ねることをとおして、ヤハウェの約束の確かさをますます強く確信するようになったのではないか。つまり下8章に記された戦争は、領土の拡大とか資源の獲得とかの世俗的な利益をめざした戦争ではなく、ヤハウェゆえの戦争、ヤハウェに押し出された戦争だったのではないかと思います。目の前に敵がいる。その敵を「断つ」とヤハウェは言う。「名声を与える」とヤハウェは言う。ならば打って出よう。すると実際に勝利してしまう。まさにヤハウェの言うとおりだ。ヤハウェへの信頼、ヤハウェの力への確信がますます深まる。このようにして、ヤハウェゆえの戦争が繰り返された。

以上の状況把握は、「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた」というフレーズを二回繰り返す(6節、14節)、聖書記者のそれと合致しているように思います。

ダビデについて気になること

ヤハウェによって支えられた戦争遂行そして戦勝が、ヤハウェへの信頼をますます深める。下8章に記されたダビデの戦争がこの構造の下で行われていることを確認しました。

さて今回の方針は、このダビデの快進撃をダビデのこれまでの人生全体の中に置いてみることでした。ヤハウェによって支えられ、ヤハウェへの確信をますます深めるダビデにはつけ入るスキがない。まさに「主と共にある」ダビデです。そのように見えます。ですが、これまでダビデ物語を注意深く読んできた者は、そうしたダビデ像に回収しきれない要素がダビデの中にあることを知っています。「主と共にある」ダビデは自らのうちに異物を抱え込んでいる。ダビデはその異物を抱えつつ人生を歩んでいる。

異物とはひと言でいえば傲慢です。ヤハウェが自分と共にあることを信じ、ヤハウェの守りを信じて事にあたり、ヤハウェの前で謙遜に祈るダビデ(下7:18-29)。その人格はまさにヤハウェが人に求めるものなのだろうと思います。ですが、そのダビデの中に、「主が共にある」ダビデからは想像もできないほどの倨傲が居座っている。そしてそれがときに顔を出す。

このことですぐ思いつくのは、上25章に出てくるナバルの話と、ダビデの最初の結婚相手ミカルの話です。

ナバルのエピソード

ナバルのエピソードについては以前書いたことがあります(「ダビデ、キレる」https://note.com/ytaka1419/n/n5370ceecc05b)。サウルの追跡から逃げ回るダビデ一行は、富裕者でたくさんの家畜を飼うナバルの牧童を守る仕事をしていたらしい。そのことを理由に、「祝いの日」に、ダビデはナバルに食料のお裾分けをお願いする。ところがナバルはそれを断る。ダビデなど所詮「主人のもとを逃げ出す奴隷」ではないかと言う。サウルに追いかけられているダビデを皮肉ったわけです。そして、そんな素性の知れぬ者に食べ物を分けてやるわけにはいかない、と言う(上25:11)。

ダビデはこの話を聞いて、怒り心頭。即座にナバル一族と戦いをすべく出発した。途中、「聡明で美し」いナバルの妻アビガイルに出会い、説得される。愚か者ナバルなど相手にするな、復讐は主のすること、自ら血の復讐をしたなら、そのことが、将来の指導者であるあなたの躓きとなる。ダビデはその言葉によって正気に返った。そして述懐する。もしあなた(アビガイル)に出会わなければ、「明日の朝の光がさすころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう」(上25:34)。すんでのところで、ナバルの一族をまるごと殲滅する罪を免れた、ありがとう、というわけです。

ダビデの自尊心

このときのダビデの怒りのすさまじさには驚かされます。素性のわからぬ者とバカにされただけで、400人の部下を引き連れ、ナバル一族全滅を企図する。この凄まじい怒りの背景には、その前のシーン(上24章)で、サウルに「お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」と予言されたことがあるようです。サウル現王によってお前は未来の王だ、と言われ、ダビデは相当自信を深めた。いい気になったと言ってもよい。俺は王だ。このパンパンに膨らんだ自尊心が、ナバルの「素性の知れぬ者」という言葉で一気に破裂してしまった。こんなことを許すわけにはいかない。怒りのすさまじさは、自尊心の肥大のすさまじさを示しています。あえて確認するまでもないと思いますが、肥大した自尊心とは、おのれを実際以上に高く買っていることを意味します。つまりこのときダビデは、傲慢のとりこになっている。

「血色がよく、目は美しく、姿も立派」(上16:12)な青年ダビデは、サウルに追われ、逃げ回るうちに、傲慢という異物を内に抱え込みつつ生きる人間となっています。

翻弄されるミカル

ダビデの元妻ミカルについても下6章を読んだときに言及しました(「♯40 ウザの死、ミカルそしてダビデ/サムエル記下第6章」https://note.com/ytaka1419/n/nca7cd2d08ef3)。ダビデは、ナバルの妻アビガイルを見初めて、ナバルの死後彼女と結婚します(上25:42)。妻のミカルは立場がなくなる。見かねたミカルの父サウルが、ダビデとミカルを別れさせ、ミカルをライシュの子パルティ(エル)と結婚させた(上25:44)。ここでダビデとミカルの関係はいったん切れます。

しかし時が経過し、サウル王家とダビデ王家の調停話が浮上してくると、そこにミカルが再び登場します。ダビデが、サウル家と契約を結ぶにあたって、元の妻ミカルを連れてくるように要求したからです(下3:13)。ミカルは、いま一緒にいるパルティ(エル)との仲を切り裂かれます。泣く パルティ(エル)  を振り切って、ダビデ家にやって来る(下3:16)。王の命令ゆえ、従わないわけにはいかないのです。しかしダビデとミカルの間は冷え切っている。ダビデにとってミカルは、「サウル王の女婿」つまり「王の親族」という地位を得るための手段でしかない。「女婿」という地位を得るためには、ミカルと パルティ(エル)  との間を裂いたところでどうということはない、というわけです。ダビデは妻たちそして側女たちとの間に多くの子どもを儲けていて、そこにミカルの入る余地はない。という次第でミカルはダビデの近くにいながら大変寂しい人生を送り、死んでいったとのことです(下6:23)。

ミカルは一生を通じてダビデに翻弄され続けました。初発の時点でたしかに「ミカルはダビデを愛していた」(上18:20)。だからこそ、父サウルの魔の手からダビデを逃れさせるために喜んで手助けをします(上19:11-17)。しかしいったん関係が途切れたのち、再びダビデの前に現れたミカルは、人が変わってしまったようです。愛するパルティ(エル)と無理矢理離され、政治的目的のために連れてこられたのだから、無理もない話です。ダビデの下で暮らすミカルはほぼ生ける屍状態だったのではあるまいか。

翻弄するダビデ

他方ダビデにとって、ミカルは「サウルの女婿」の地位を得るための道具の意味しか持ちません。ダビデにとっては、最初の結婚もその意味合いが強かったと考えられます。ミカルは本気だったでしょうが。道具的な結婚だからこそ、ミカルがいるにもかかわらず、魅力的で知的な女性アビガイルに結婚を申し込んだりした。ミカルをパルティ(エル)との仲を切り裂いて召喚したときには、もっと露骨にミカルを「道具」と見なしています。「女婿」という道具です。このダビデの状況定義をミカルも十分承知しています。だから召喚後のダビデとミカルの対話には、いささかの温かみも感じられません(下6:20-22)。

ダビデの傲慢

なぜダビデは、このように徹底的にミカルを道具として、モノのように扱い得たのか。ダビデは男性、ミカルは女性ですから、当時のジェンダー規範を考慮しなくてはならないのはたしかです。ただそれを考慮しても、やはり、ダビデは人として相当に冷たい。触るとヒヤッとするほどに冷たい。そんな人柄が想像できます。そしてその冷淡さを下から支えているのは、ここでもやはり彼の傲慢なのではないか。自分を高みに置き、他者一般を睥睨する。そんなイメージです。傲慢であるがゆえにダビデはミカルを徹底して上から見る。徹底して上から見ているので、ミカルの苦しみとか屈辱、あるいは悲しみはまったく目に入らない。ダビデの目に入るのは、ミカルの道具的効用(「女婿」)のみです。

絶好調のダビデが抱えているもの

サムエル記第8章に記されたダビデの戦果を心に留めつつ、ダビデの人生をふり返ってみました。有能で、武力に秀で、かつ信仰深いダビデ、という人物像には収まり切れないものがそこにはある。そのことがわかってきました。絶好調のダビデは傲慢の闇を抱えた人物でもあるわけです。ヤハウェゆえの戦争、ヤハウェに押し出された戦争に従事するダビデは、傲慢から自由になったわけではない。絶好調のダビデ、神に支えられていることを自負するダビデの中に、いい気になっているダビデ、調子に乗っているダビデを見出すこともできるかもしれません。

下8章のダビデを見ているだけでは、こうした側面はなかなか見えません。上16章以来のダビデの歩みを振り返ったときに初めて浮かび上がってくるダビデ像です。長いスパンで人を見ることの大切さを感じます。

聖書をとおして読むということ

と同時に、聖書が適切な情報を提供してくれていることに一種の驚きを覚えます。聖書(いま読んでいるサムエル記上下)はダビデという人物の人生を描いているのですが、ダビデという人物に対する価値評価によって筆が鈍ることがない。ダビデはダビデ契約の対象であり、立派な人物。「主と共にある」人。そのことには疑いがない。聖書は明らかにそのような人物としてダビデを描いています。しかしだからと言って、ダビデの傲慢や人間としての不誠実から目を逸らすことはしていない。じっと事実を見ている。そして冷静にそれを記録している。ナバルやミカルのエピソードは、偶々起きたことにすぎない。そういう理解もあるかもしれません。しかし他方、一つの小さな事実が隠れた全体を表すということもある。傲慢や不誠実はダビデにとって実は本質的な問題かもしれない。判断は読む側に委ねられているように思えます。

上に述べたことが聖書の現実であるとするなら、聖書を読むことにはどんな注意が必要か。聖書本文がじっと目を凝らして、いささかの粉飾もせずに人間や社会を描いているとするなら、聖書を読む際に注意すべきことは一つだろうと思います。その冷静な記述にじっくりと付き合うこと。これ以外にないように思います。聖書の記述にじっくり付き合うとは、具体的には、聖書をとおして読むということです。片言隻句に右往左往するのではなく、聖書をとおして読むことに意を用いる。そうすることによって、思いがけないテキスト理解の可能性が開けるかもしれない。実際、今回、サムエル記下8章を読むにあたって、上16章以来のダビデの歩みを振り返ったところ、聖書が書き残している二つのエピソードが浮上してきました。こういうことが聖書を読む醍醐味の一つだろうと思います。

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