
♯48 放蕩息子はほんとうに悔い改めたのか/ルカによる福音書第15章11-32節【京都大学聖書研究会の記録48】
今週の火曜日1月21日に開催した聖研の記録を以下に記します。私たちの会は、京都大学のアカデミックカレンダーに沿って活動していますので、授業休止期間に入る来週から活動を休止します。新しい年度の授業実施期間に入った時点で、再開する予定です。4月にまたお目にかかりましょう。
【2025年1月21日開催】
ルカによる福音書第15章11-32節を読みました。直前に置かれている2つのたとえ話(「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」)と同じく、イエスが語るたとえ話です。新共同訳では、「「放蕩息子」のたとえ」という小見出しがつけられています。よく知られた放蕩息子の話です。直前の2つのたとえ話同様、ここでも、一度失われたものが戻ってくる、取り戻される、それがテーマです。前2つの話にくらべると、状況の設定が詳細かつ具体的で、読む側の想像力もその分、刺戟されます。
どんな話か
よく知られた話ですが、一応最初に筋立てを語っておきます。
ある人に2人の息子がいた。弟の方が(父親はまだ死んでいないのに)財産分与を要求する。父親はそのリクエストに応えた。弟は分与された財産(農地あるいは家畜か)を換金し、遠国に出かけ、そこで放蕩三昧の暮らしをして、財産を使い果たしてしまった。一文無しになったタイミングでその地方に飢饉が起こり、食べ物にも事欠くようになった。その地に住む人の世話になって、豚の世話をする仕事にありつけたが、豚のえさでさえ入手できないほど困窮していた。進退窮まったところで、弟は我に返った。故郷の父のところにはたくさんの食べ物がある。帰って謝ろう。「天にもお父さんにも罪を犯した」と言おう。弟はそう決心し、故郷に向かう。
父親は、このどうしようもない息子を追い返したり、叱責したりはしない。それどころか帰還してくる弟の姿が遠くの方に見えると、自分から走り寄っていき、抱擁し、接吻した。弟は予定どおり「天にもお父さんにも罪を犯した」と謝罪するのだが、父はその言葉に反応することもない。弟の歓待を雇い人に指示するだけだ。良い服、指輪、履き物を与えなさい、と。「死んでいたのに生き返」ったのだから、お祝いの宴会だ。
1日の仕事を終えて帰ってきた兄は、自宅での宴会騒ぎに驚いた。事情を聞くと、自分の財産をもって家を出たはずのあの弟が、帰って来たらしい。何であいつのために宴会なのか。父親に文句を言う。「あなたのあの息子は娼婦と遊んで一文無しになった。なぜそんな奴のためにご馳走するのか。私は一度としてこんなことをしてもらったことがない」。父親は兄に向って言った。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返ったのだ。宴会を開いて喜ぶのは当たり前だろう。お前はいつも私と一緒、私の財産はすべてお前のものではないか」。
たとえ話の意味
後半の兄のクレーム部分は少し措いておいて、弟の帰還までの物語をどう受けとめるか。身勝手な弟の悔い改めの話、そしてそれを迎え入れた父の愛の話として理解する。これが一般的ではないかと思います。弟は父親存命中にもかかわらず財産分与をしてもらった。この身勝手な弟は、手にした財産を元手に遊蕩三昧して一文無しになってしまう。それでもまだ悔い改め(方向転換)はない。飢饉が起き、豚と同列になったところで、ようやく我に返る。そこで反省し、悔い改め、「悪いことをした!」と言って父そして神に謝った。身勝手な弟が方向転換するには、進退いよいよ窮まれり!的な困窮が必要。どん底まで行かねば人は変わらない。物語はそう語っているようだ。ともかく決心して、恐る恐る故郷に帰ろうとする。ところが父親は愛であふれている。身勝手そのものの息子だが、一度は死んだとあきらめていたのにこうして帰ってきた。うれしくて仕方ない。羊飼いが見失った羊を見つけたように、女が無くした銀貨を見つけたように、大喜び。大盤振る舞いしないではいられない。
兄と弟
このたとえ話は、後半で兄のクレームについて言及していて、それが直前の2つのたとえ話との大きなちがいです。直前の2つの話(「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」)は、話がいわば一直線で、失うこと‐見出すこと、というテーマだけでできています。これに対し、放蕩息子の話の方は、兄が登場することにより、微妙な陰影が描かれることになってきます。
聖研の話し合いでも、兄の評価をめぐってさまざまな意見が飛び交いました。ある人は、兄がかわいそう、と語ります。兄は日々勤勉に真面目に労働していて、遊びや身勝手さには程遠い生活をしている。でも特別なものは何も与えられない。これに対して、弟の方は、身勝手の極みのような人で、父親の財産を食いつぶしてしまったのに、大盤振る舞いされている。お兄さんは同情に値する。
このような意見に対して、別の角度からの意見もありました。兄は生真面目だからこそ不公平だといってクレームをつける。もっと鷹揚に構えて、弟の帰還を素直に喜ぶべきではないか。「死んでいたのに生き返った」と言って喜ぶ父親とともに喜ぶことが、なぜできないのだろう。
兄と弟、あるいは相続というテーマは、現代でも身近なテーマなので、話がはずみます。聖研のメンバーでも、兄と弟という関係の当事者がいたり、父親の兄弟(つまり叔父あるいは伯父)にこの話とそっくりなことがあった、と言って話してくださる方がいたりして、話題は尽きません。兄と弟の物語は、聖書でも何度も登場します。カインとアベルの話、少し変則ですが、イサクとイシュマエルの話、ヤコブとエサウの話、あるいは、ヨセフと兄たちの話等々です。ラケルとレアの話などもこのテーマの変奏かもしれません。きょうだいには、何かしら普遍的なテーマが隠されているのかもしれません。「放蕩息子」の兄についてはまた後でふれることにします。
放蕩息子は悔い改めたか
先ほどもふれたように、悔い改めた弟と愛にあふれた父親という構図で読むこと、これがこのたとえ話についての素直な読み方ではないかと思います。聖研でもこの読み方に拠る人がいましたし、それに賛同する人もいました。ただその読み方が盤石かと言うと、どうもそうでもない。そんな気がします。構図を構成する2つの要素(「悔い改めた弟」と「愛にあふれた父親」)のうち、ここで問題にしたいのは、「悔い改めた弟」の方です。弟はほんとうに悔い改めたのだろうか。これが主たる疑問です。
なぜそう考えるのか。理由はとても単純です。ルカ福音書のテキストを読むと、弟が悔い改めた(あるいは反省した、でもよいのですが)とはひと言も書いていないからです。悔い改めた、と文字通り書いていなくても、それを推察できる表現があればそれで十分なのですが、目を凝らして探しても、それがない。そのように私には思えます。だから定型的な読み方の話を聞きつつ、一歩引いてしまうわけです。
弟に関する記述を逐一拾いつつ、弟の悔い改めを疑う根拠を詳しく説明したいと思います。ただその前に、悔い改めについてひと言コメントしておきます。前回確認したように(「♯47 いま起きていることを語るたとえ話/ルカによる福音書第15章1-10節」)、悔い改めの原義は「方向転換」です。前回は、イエスのもとに喜んで集って来る徴税人や罪人たちにおいてこの意味での悔い改め(「方向転換」)が起きていると述べました。これに対し、いま問題にしようとしている悔い改めとは、もっと狭い意味でのそれです。自らの悪行つまり神からの離反を告白し、それについての赦しを乞う。神からの離反をそれとして認めること、そしてそれを告白し、赦しを乞うこと。そういう意味での悔い改めです。それが、いま画面の中央にいる弟にあったのか、なかったのか。それを問題にしているということです。
言い訳としての有用性
たしかに弟は、帰郷して父親に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと決意します(18-19節)。その直前に「我に返って」(17節、口語訳では「本心に立ちかえって」)とあるので、この反省の言葉は弟の内心の表現(本心)とつい思ってしまいがちですが、そうではない。この言葉は、彼が父親に会ったときに「言おう」と思った言葉です。福音書本文にははっきりとそのように書いてある。父親の顔を思い浮かべ、父親と会うという状況を想像したときに思いついた言葉、というわけです。相手を限定しないで、思わずポロリと出てきた言葉などではありません。
ということは、何を意味するか。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という言葉が、一定の有用性をもつ発話として用意されているということです。どんな有用性か。いうまでもありません。父親に対する言い訳としての有用性です。父親の財産を持ち出し、無残にもそれを蕩尽してしまった自分が、どの面下げて親の前に出られようか。めしを食わせてくれ、など図々しくてとても言えたものではない。ふつうの人ならまずそう考えます。その自分のために用意した発話というわけです。こういうふうに言えば、父親もひょっとしたら無残な自分を家に入れてくれるのではないか。食事を出してくれるのではないか。
雇い人の一人にしてください
弟は、父親に再会したときに、あらかじめ用意した言葉を一字一句変えずに語ります(21節)。弟は必死です。自分が生きるか死ぬかは、父親に対して発する言葉の説得力にかかっている。あらかじめ周到に準備し、吟味しぬいた言葉をゆるがせにはできない。選び抜いた言葉を慎重に語ります。このあたりのリアリティがすごい。弟は用意したシナリオから一歩も踏み外していない。一字一句違えず、シナリオどおりに言葉を運ぶ。必死だからです。ところが大変皮肉なことに、選び抜いた言葉を正確に伝えようとすればするほど、語る言葉から力が抜けていきます。シナリオどおりの言葉には命が宿らない。一番肝心なところが欠落してしまう。だから父親は一顧だにしない。何も反応しない。
準備段階の言葉(18-19節)と実際の発話(21節)を比べてみると、一カ所だけちがいがあります。準備段階にあった「雇い人の一人にしてください」が、実際の発話では脱落しています。他の部分は、まったく同じです。一字一句変えていない。なぜ「雇い人の一人にしてください」が脱落したのか。「父親の愛にあふれた態度を見て、言う必要がないと思ったから」とか「泣いてしまって言葉に詰まったから」、あるいは「父親が息子の言い分を了解したので、みなまで言わせなかった」とかさまざまな解釈があるようです。それらにもそれぞれ一理あると思いますが、ここまでの考察の延長上で考えると、ただ単に弟が引っ込めたと考えるのが最もわかりやすい。シナリオどおりの言葉を発しながら、ちらっと父親の方を見ると、全面的に赦免の態度である。何でも言うことを聞いてくれそうだ。ならば、ここで「雇い人にしてくれ」という、自分を低く売る条件をこちらから出すまでもないではないか。そういう理由で引っ込めたというわけです。ずいぶん計算高い。
「雇い人の一人にしてください」という一文の脱落は、弟の発話が有用性の観点からなされていることを、別の角度から照らし出しているように思えます。
我に返る
弟は進退窮まったときに、「我に返って」自分に言い聞かせたのでした。故郷の父親のところには有り余るほどのパンと大勢の雇い人がいる。それに引き換え、俺はここで飢え死にしそうだ。こう自分につぶやいた後で、父親への謝罪の言葉がまとめられるわけです。「我に返る」という日本語は、「本来の自分に立ち返る」というニュアンスを含みます。これまで正体不明のカルト宗教に取りつかれていたが、ふと我に返って、家族や友人たちのことを思い出した。酩酊ないし憑依状態から素面に戻る、あるいは正気に戻るというイメージです。そのイメージにあまりに素直に従ってしまうと、「本心に立ち返って」といった理解になってしまうのでした。先ほど述べたとおりです。これまでは身勝手な欲望に身を任せていたが、ふと我に返って、憑き物が落ちたように真人間の自分に戻った。
ですが、ここでは、これまで視野に入らなかったことが見えてきた、というほどの意味にとっておくべきだろうと思います。これまではおのれの飢餓のことばかリ考え、心配してきたが、よく考えてみると、故郷には父がいて、そこには食料がたくさんあるではないか。自分の飢餓のことが心配で視野狭窄になっていた。しかし冷静に視野を広げてみて考えると、頼れるものがあるではないか。この「冷静に視野を広げてみて考える」が、我に返る、ということだろうと思います。心配のあまり周囲が見えなくなっている状態から、広い視野をもったふだんの自分に戻るというほどの意味です。
それでも、いややはり「我に返る」とは本心に立ち戻るという意味だ。正気に返る、素に戻る。それが良心というものだ。そのように考える人もいるかもしれません。それだけ「我に返る」=本心に返る=真人間に戻る、というイメージが強固だということでしょう。ですが、そうだとしても、その本心に返った人(弟)が、まず最初に思ったのが、「父のところにはパンが有り余るほどあり、雇い人も大勢いる」ということだったことは注目に値します。「本心に返る」の通俗イメージとは異なり、食料の問題こそが「我に返った」弟の第一義の問題だった。そのように福音書記者は記しています。ここでは福音書記者の記述に素直に従っておこうと思います。弟にとって、良心問題はここでは無関係だというわけです。
悔い改めについての結論
以上、弟に関する記述に沿って3つのことを確認してきました。①弟の悔い改めの言葉は、家に帰ることの言い訳としての有用であること、②あらかじめ用意したセリフとは異なり、実際の発話においては、「雇い人の一人にしてくれ」との言葉は削除されていること、③我に返った弟はまず父の家にある食料のことを思い出したこと、の3点です。これらのことを考えると、弟つまり「放蕩息子」には神からの離反を告白し、赦しを乞うという意味での悔い改めはなかった。そう考えるのが妥当であるように思います。少なくとも、悔い改めがあったことを積極的に示す証拠は乏しい。そのように結論せざるを得ません。
兄の不満
となると、兄のクレームにも新たな光があてられるように思います。もし弟が「悔い改めの言葉を語るが、真の悔い改めからはほど遠い人」であるとするなら、兄がそのことに気づかないはずはありません。ひと目見てピンと来たはずです。となると、兄の目には、父は弟に騙されているようにしか見えない。弟は真人間になったのではない。真人間が言うであろうセリフを語っているだけだ。父はそれに付き合わされている。弟の真人間芝居に付き合わされている。そうであるにもかかわらず、少しもそのことに気づいていない。真人間になったことを喜んで、本気で歓待しようとしている。何たることか。
兄の不満は、一見すると、自分の処遇問題に関する単純な不満なのですが、不満の背景には、意外と鋭い洞察が隠れているような気がします。
父親と弟の対面
弟と兄をこのようにとらえ直したのち、改めて父親のふるまいを考えます。父は遠方に息子を見つけて、駆け寄って行ったのでした。その際、ズタズタになった息子を見て「憐れに」思ったと記されています。「憐れに思う」のギリシャ語は、内臓が傷つくことを意味する単語(スプランクニゾマイ)の受動態です。この言葉はしばしばイエスの癒しの場面で使われます。たとえばイエスは重い皮膚病の人を前にして、「深く憐れん」だのでした(マルコによる福音書1:41)。こうした場面で現実化している事態を以前「苦痛の転写」という言葉で表現したことがあります(「#1 苦痛転写の意味/ルカによる福音書9:37-43, 43-48」)。それと同じことがいまここで起きている。息子の痛みが父親を身体の底からとらえて離さない。そういう事態が起きているわけです。そしてそうであればあるほど、父親の中に息子へのいとしさがあふれる。そのような構図になっていると思います。
息子つまり弟の方は、これまで詳しく述べてきましたように、事前に準備したセリフをしゃべります。父親はむろんそれらの言葉を聞いていたでしょうが、本文を読む限り、まったく無反応です。父親はたしかに僕(しもべ)たちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と命じますが、それは弟の周到に準備した言葉とは、まったく関係がないように見えます。平たく言えば、父親にとって弟の言い訳などどうでもよいのです。父は弟の言葉に反応しているのではなく、自身の事情で動いている。そのような感じです。自身の事情とは、この場合、むろん苦痛転写のことです。
この場面には二人の主たる登場人物がいますが(弟と父)、その二人はそれぞれにまったく別のストーリーの中にいる。そんな感じさえします。弟はかねてより想定したストーリーに沿ってペラペラ言い訳を並べる。父親はそれを音としては聞いていたかもしれませんが、それだけです。弟の発する言葉の意味内容とは一切関係なく、「憐れに思う」ことだけを根拠に、指示を出し、歓待の準備をしている。そんな風景です。
父親の喜び
弟には悔い改めはなかったと先に推論しました。しかしもし父親が「憐れに思う」ことだけを根拠に動いているとするなら、悔い改めの有無には父はまったく関心がない。そんなことは端から眼中にない。言い訳を周到に準備した弟にとっては想定外でしょうが。父親にとっては、弟が無事に戻ってきてくれたことがすべて。後のことはどうでもよい。父親は弟の帰還を「死んでいたのに生き返った」と表現します。しかもこの表現は、今回読んだ 15:11-32 に2回も登場します。つまり父親にとって、弟の件は「死んでいたのに生き返った」事件であり、それ以外ではない。死と生のちがいにくらべれば、悔い改めがあるかないかは、どうでもよいくらいに小さな差異にすぎない。
父親が弟の出奔を「死」と表現していることに注目したい。弟が視界から消え去ることは、父親にとっては、死んだも同然の出来事だったわけです。もう姿を見ることも、話しをすることもできない。取り返しのつかない決定的な出来事、それが弟の出奔なのでした。この受けとめ方には、父親の弟への深い愛が込められているように思えます。
その弟が帰ってきた。死という不可逆の変化が覆された。ありえないことが起きた。その喜びはとてつもなく大きかったにちがいない。死と受けとめていたからこその喜び。天と地が逆さになるような喜び。「死んでいたのに生き返った」という表現には、その驚くべき喜びが刻印されているわけです。この喜びの前には、悔い改めの有無の問題などまったく色褪せます。父親がそんなことどうでもよいと考える理由がわかるような気がします。兄の「鋭い」洞察もまた、父の喜びを前にすると、その色を失います。兄が「どうでもよい問題に神経質にこだわる人間」にしか見えなくなる。
一方的な愛
前回読んだ2つのたとえ話では、羊を見失った羊飼いや銀貨を無くした女が神の側を代表していました。今回のたとえではいうまでもなく、父親が神の側、兄や弟が人間の側を代表します。
人間の側の悔い改めに対応して神の側から歓待(赦し、救い)が提供されるなら、話は合理的です。しかし「放蕩息子」のたとえ話は、そうした合理的な神の愛を語っていない。人間の側の条件に一切依存しないで歓待が提供される。いわば不合理な愛を語っている。これがここで示してきたことでした。この一方的な愛を受けた人間は、どこに行くのか。無事悔い改めにたどり着くのか。それともまだ放浪を続けるのか。興味が尽きないところです。