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♯41 神の意思と人間の企て/サムエル記下第7章【京都大学聖書研究会の記録41】

【2024年11月19日開催】

はじめに

サムエル記下第7章を読みました。第6章では、神の箱をダビデの居所となった町エルサレムに運び上げる話が語られていました。第7章は、それを受けて、神の箱を安置する場つまり神殿の建設をめぐるヤハウェとダビデのやりとりが記されています。預言者ナタンが初めて登場し、ダビデにヤハウェの言葉を伝えます。それは神殿建設をめぐるヤハウェの意向を伝えることから始まるのですが、その言葉の中に、後年ダビデ契約とよばれるようになったものが含まれています。ダビデの系統の継続と安定に関するヤハウェ(神)の約束です。

このダビデ契約の影響は大きく、長きにわたって、メシアはダビデの系統から現れるとの信念が広く行き渡っていたようです。旧約聖書にもそのことへの言及は散見されます。たとえば「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それはわが僕ダビデである」(エゼキエル34:23、新共同訳、以下同)、あるいは「一人のみどりごがわたしたちのために生まれた/‥/その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。/ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない」(イザヤ9:5-6)。また新約聖書マタイ福音書の冒頭にはイエスの系図が掲載されていますが、そのはじめに表題のようなかたちで、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記されています。

サムエル記下第7章は、いま見たように、ダビデ契約が主内容です。なので、この章はダビデ契約のことが書かれています、と言ってしまえばそれで終わりという感じもします。が、記述を丁寧に追っていくと、そうした簡単なまとめでは済まないことに気づかされます。テキストの吟味によってなかなかに深い内容が姿を現します。聖研でのみなさんとの話し合いをとおして、そのことを実感しました。今回はそのことを中心に報告します。

あらすじ:ヤハウェの言葉とダビデの祈り

はじめに第7章の内容を確認しておきます。第7章前半では、神殿建設という文脈が設定されたあと、ナタンを介してヤハウェの言葉が語られます。後半部ではその言葉を受けたダビデが祈りをささげます。聖研では、前半部に話題が集中しましたので、ここでも前半部の内容を詳しく紹介します。

ダビデはエルサレムを拠点としたのち、そこに自らの住まい(王宮)を建設した。そのことは、下5:11-12に記されています。ティルスの王が、建材としてのレバノン杉と、職人を提供してくれたという。その王宮に住むダビデは、次のような言葉で預言者ナタンに話しかけます。自分はレバノン杉でできた立派な家に住んでいるが、神の箱は相変わらず天幕の中だ、と。つまりダビデは、神の箱を安置する場所が要るのではないかと思ったわけです。自分は立派な家に住んでいるのに、神の箱が相変わらず天幕の下に置かれたままなのが、気になって仕方がない。神殿を立てよう。そう思って、ブレーンであるナタンに相談した。ナタンは、好きにしたらよい、と言う。ヤハウェはあなたと共にいる。つまりあなたを祝福する。

このやりとりがあったその晩、ヤハウェがナタンに語った。わたしは出エジプトの時代から今日までずっと天幕を住みかとしてきた。ダビデはわたしの住むべき家を建てるというが、これまでの歴史を振り返ってみよ。「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と〔わたしがあなたがたに〕言ったことがあろうか」(7節)。

ヤハウェの言葉が続きます。わたしはダビデを選び、民の指導者とした。そして彼を庇護し、これまでにない安定をこの民に与えてきた。それだけではない。将来のことを言おう。「主があなた〔ダビデ〕のために家を興す」(11節)。あなたが死んだのちも子孫に跡を継がせ、「その王国をゆるぎないものとする」。さらに「この者〔子孫〕がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(13節)。彼が過ちを犯すときは懲しめを与える。しかしわたしの慈しみが去ることはない。

以上が前半で、そのうちいま上に書いた内容がダビデ契約にあたります。後半部ではダビデの長い祈りが記されます。ヤハウェの言葉をナタンから聞いたダビデは、自分のために家を興す(建てる)と語ったヤハウェの言葉によって、祈りをささげる勇気を得た(27節)。そして長大な感謝の祈りをささげる(18-29節)。

神殿建設という提案にヤハウェはどう反応したか

ダビデが神殿建設の志をもっていることを知ったヤハウェは、「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と〔わたしがあなたがたに〕言ったことがあろうか」(7節)と言います。先に引用したとおりです。わたしが一度でも家を建ててくれと言ったか、なぜ家を建てないのかと詰問したことがあるか。そんなことは一度もない。わたしには家など不要だからだ。天幕に住みながらあなたたちと共に歩んできた。ダビデを選び、ダビデの統治に平和と安定を与えた。それで十分ではないか。なぜ屋上屋を架すような神殿建設の企てをするのか。引用した発言(7節)をもとに、ヤハウェの言いたいことを推測すると、このようなことになりそうです。

つまりヤハウェは神殿建設に否定的です。そんなものは要らない。これがダビデの提案に対するヤハウェの答えですが、その答えに固執しているふうではない。ダメ、ダメ、絶対に。何があっても認めない。そう言っているわけではない。ダビデの系統の継続と安定を約束した後、「この者〔子孫〕がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(13節)と語っています。これも先に引用しました。ここで「この者」というのは文脈上は子孫のことでしょうが、実際には、ダビデの子ソロモンを指すと考えてよい。ダビデの神殿建設には反対だが、ソロモンが建設するのは、OK。そう語っていることになります。それどころか、その王国をとこしえに支え、その結果「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」とまで言っている。

「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」というのは、神と人の関係を語る最上級のフレーズのようにみえます。エゼキエル書には、究極の状態を語る言葉としてこのフレーズが二度出てきますし(エゼキエル37:23, 27)、パウロも、まさにそのとおり、と言いたげに引用しています(コリントの信徒への手紙二6:16)。つまりヤハウェはここで神殿を建設するソロモンに対し最大限の祝福を与えています。

だがヤハウェは神殿建設には反対ではなかったか。天幕で十分。そう言っていたのではなかったか。ダビデに対してはそう言ったのに、なぜソロモンが建設するとなると、態度が変わってしまうのか。条件は少しも変わっていない。ただ建築の主体が変わっただけだ。それだけでなぜ急にOKとなってしまうのか。そもそもヤハウェはほんとうのところ神殿建設をどう思っているのか。こんな疑問が次々に出てきます。聖研の話し合いでもそうでした。そこでの議論を参照しつつ、これらの問いについて考えてみたいと思います。

神殿の意味

そもそも神は人が建てたものの中などには住まない。これが古代イスラエル民族の伝統的な考えだったようです。初代のキリスト教徒で、殉教したステファノの演説が使徒言行録に記されていますが、そこで彼はこの伝統的な考えに拠りつつ、神殿問題に言及しています。ダビデが神殿建設を願ったが、かなわず、それを実際に行ったのは、ソロモンだった。けれども、とステファノは言います。「けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」と語り、「天はわたしの王座、地はわが足台。/あなたはどこに/わたしのための神殿を建てうるか」(イザヤ66:1)というイザヤ書の言葉を引用します(使徒言行録7:46-50)。ヤハウェが建物の中に住むという考えはナンセンス。時空を超えて存在する神がこの小さな建物の中に納まるはずがない。(話は飛びますが)「千の風になって」と歌う人も、「そこにわたしはいません」と言います。あの場合は墓でしたが。ましてヤハウェに於いてをや、です。

今回のサムエル記下7章で出てくる神殿に否定的なヤハウェの言葉は、まさにこの観念につながっているように見えます。神殿など要らない。建物が欲しいと一度でも言ったことがあるか。このヤハウェの発言はいわば伝統に則っています。しかしそのヤハウェが、ダビデの神殿建設の意思を受け、息子ソロモンの代における建設を認めたのでした。お前がそんなに神殿にこだわるなら、お前の代はともかく、息子の時代には、建設を認めてやろう。ヤハウェはそう語っているわけです。何だか民意を尊重しすぎのような感じです。そこまで尊重しなくても、とつい思ってしまいます。何といっても神は神なのだから。

ダビデの説明

なぜソロモンが建設するならOKなのか。このことは旧約時代の人々にも疑問だったようで、歴代誌に登場するダビデは、このことについて説明を与えています(歴代誌上22:6-10)。ヤハウェから次のように言われた、とダビデは言います。あなたダビデは戦争を繰り返し、たくさんの血を流した。だから神殿建設は許されない。息子ソロモンは、あなたとはちがい、イスラエルに平和と静けさを与える。それゆえ彼が神殿を築く。「この子はわたしの子となり、わたしはその父となる」。このダビデの発言は、たしかに、サムエル記下第7章から出てくる疑問への一つの答えになっているように思います。

ただこれは、なぜダビデはだめで、ソロモンならOKなのかの説明にはなっていますが、なぜヤハウェが翻意したのかについての説明にはなっていません。建物は要らないと言っていたあのヤハウェが、なぜ神殿建設を認めるに至ったのか。それは疑問として残ります。

ヤハウェは神殿を欲していた?

ヤハウェはほんとうは神殿が欲しかったのではないか。ヤハウェの翻意についてあれこれ考えていると、そんなアイディアも浮かんできます。口では「わたしが一度でもそんなものを求めたことがあるか」「神殿不要」と言いつつ、実は神殿を欲していた。だからダビデをいかに庇護したかを語り、将来の約束までも与えた(下7:8-13)。そのような功績に言及すれば、徐々に神殿建設が必然のものに見えてくる。それほどのことをしてくれたのだから、神殿くらい建てねば。「要らない」が「要る」や「欲しい」の別名であるのは、人間世界ではよくあること。ここでもそれと同じことが起きているのではないか。

たしかにこのように勘繰ることも、不可能ではありませんが、あまりに人間化してしまうと、ヤハウェ宗教から離れてしまいそうです。ここでは正攻法で行こうと思います。つまりヤハウェは神殿を不要と言っていたこと、しかし最後には神殿建設を黙認するようなかたちになったこと。この翻意を正面から考えたい。

王権の成立をめぐるエピソード

この問題を考えるにあたって、サムエル記上第8章に記された王制の開始をめぐるエピソードが参考になりそうです。というのも、王権の成立に際しても、ヤハウェ主導というよりは、民意に押されるかたちで話が進んでいくからです。

預言者サムエルが統治をしていた時代、その統治の継続が危うくなった。サムエルはすでに年老い、跡を継いだ息子たちが不正を行ったりして、民の信頼をつなぎとめることができなかったからだ。そこで民の代表が来て、「ほかのすべての国々と同様に、我々のために王を立ててくれ」とサムエルに懇願する。サムエルにはこのアイディアが悪と見えた。そこでヤハウェに尋ねた。どうしたらよいか。すると、意外なことにヤハウェは、「彼らの声に従え」とサムエルに答えます。ヤハウェは民の声が正しいと思ったのか。否。その逆です。民が王を立てようと思うのは、わたしヤハウェが彼らに君臨するのを忌避しようとしているからだ。彼らはこれまでも他の神々に仕えてきた。いまも同じだ。王を頼ってわたしを避ける。王権の樹立は、他の神々に仕えることと同じだ(上8:7-8)。

サムエルは、ヤハウェの指示に従い、王権が確立すると何が起きるかを逐一民に説明します。そして結局のところ、王制の行き着く先は民の奴隷化であると結論づけます。「あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分の選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」(上8:17-18)。お前たちは王権のゆえにとんでもない目に遭う。ヤハウェも知らんぷりだぞ。このように言われても、民は引き下がらない。「どうしても王が必要」、ほかの国々と同じようになりたい、と言い続けて飽くことがない。サムエルは再度ヤハウェにこの民の言葉を聞いてもらう。ヤハウェの反応はどうであったか。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」。またしても、これがヤハウェの答えです。

王権と神殿

ヤハウェの王権に対する態度ははっきりしています。それは偶像崇拝のようなものだ。自分=ヤハウェを忌避するために、彼らは王に向かおうとしている。このように王権に対する評価は、初めから否定的なのですが、どういうわけか、王権の樹立そのものに関するヤハウェの答えは、肯定的です。それは偶像崇拝だ、わたしを忌避する仕組みだ、だからダメ。これならわかりやすい。しかしそうはなっていない。偶像崇拝だ、わたしを忌避している、しかし彼らの声に従い、王を立てよう。そう言っているわけです。

王権に対するこの反応は、神殿に対する反応とうりふたつです。繰り返し述べるように、ヤハウェは神殿には反対です。そこにヤハウェは住まない。それははっきりしている。にもかかわらず、ソロモンによる建設はほぼ黙認です。OKと言っている。

彼らの声に従う

王権の成立を求める民の声に対し、その本質を偶像崇拝と見破りながら、ヤハウェはその民の声を握りつぶさなかった。むしろ「彼らの声に従う」ことをサムエルに求めた。そのことの意味を考えてみます。ひと言でいえば、ヤハウェは、当事者主権を認めたということになると思います。王を求める民の声を聞いたときに、ヤハウェ自身の判断(「偶像崇拝」という判断)に従って現実に介入し、現実をヤハウェ自身が良しとする方向に改変しようとはしなかった。このケースでは、王というかたちをとらない統治方式を強行しようとはしなかった。そうはせずに、いわば、彼らに事の成否をゆだねたわけです。彼らに任せた。彼らが彼らの判断に従い、行動することを良しとした。

ですが、それはヤハウェが放置した、あるいは事の推移に無関心であることを意味しません。王権については、初めから非常に明確な判断を下しています。それゆえ民の将来について危惧しているわけです。王権成立の帰結についてサムエルに詳しく語らせたのも、そのためです(上8:10-18)。王権の成立とともに、男たちは徴兵され、女たちも徴用される、畑も没収される。要するに「あなたたちは王の奴隷となる」。そのことをあらかじめ確認する。そういう手続きを踏んでいます。そのように十分な情報を与えたうえで、当事者の責任において行動することを求めたわけです。あとは君たちの責任でおやりなさい。

王権に関するやりとりをまとめると、以下のようになります。①ヤハウェの判断は最初からはっきりしていること、②民の要望に対しては、ヤハウェ自身の判断はいったん括弧に入れ、③民が求める道に進んだときの帰結について十分な情報を与えたうえで、④民の判断、行動に委ねる。

神殿建設

神殿建設の話に戻ります。ダビデが「神殿を建てたい」と言ってきた。ヤハウェははっきりと神殿不要の立場をとります。そのことをダビデに伝えた。その上でダビデに建設の許可を与えた。わけではない。建設そのものは、息子ソロモンの手に委ねられます。このあたりが王権の話とのちがいです。とはいえ、ダビデの治世に神殿建設というアイディアがまったく抑圧されてしまったわけではない。ダビデは自分の役割は建設の「準備」をすることだととらえていた節があり、着々と歩を進めていたらしい(歴代誌上21:5)。つまり神殿建設は実質上スタートしていた。

つまりここでも、ヤハウェは自身の判断(「神殿不要」)を押しつけたりはしていない。建設阻止に動いてはいない。そうする代わりに、神殿建設の業務が流れていくのを黙認する格好となっています。つまり、自身の判断はいったん括弧に入れ、当事者たちに判断、行動をゆだねているわけです。むろんこの場合も、ヤハウェは当事者たちを放置しているわけではない。むしろその動向に強い関心を持っています。だからこそ、神殿建設後、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と最上級の言葉で王との関係を語ったのちも、王(ソロモン)が過ちを犯すなら、懲らしめると言い、慈しみを取り去ることはない、と約束します。

おわりに

神殿建設をめぐる神(ヤハウェ)とダビデのやりとりについて考えてきました。サムエル記下第7章に記されたこのエピソードは、王権成立時の神と民とのエピソード(サムエル記上第8章)と同種の問題を提示している。それがここでの提案でした。人間の意思と神の意思がくいちがう場合、どのようなかたちで現実が動いていくか。二つのエピソードはこの問題に対して、同じような把握を示しているように見えます。エピソード自体は旧約時代の限定された時代状況下での話ですが、神と人間一般の関係の問題をそこから読み取ることも可能です。ここではそのようなつもりで読んできました。

人間の企てが神の意思に合致しない場合、神はそれを力づくで阻止しようとはしない。私たちは強制収容所内の人間とはちがう。そう見られているようだ。神ははっきりと自身の意思を示したあと、いったん身を引く。ボールはこちらに投げられたわけだ。ここから後は、人間の側の責任ということになる。過ちを犯すなら懲らしめを受けるだろうし、そうでないなら慈しみが示されるだろう。そのことを指して尊重という言葉を用いることもできるかもしれない。私たちは尊重されている。それを信じて、未来へと一歩踏み出していく。私たちにできることは、それしかない。そんな気がする。

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