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「申し訳ございません」という呪文
今日、社内メールを打ちながら「申し訳ございませんが…」という言葉を多く使っていることに気がついた。「お忙しい中申し訳ございませんが、ご検討いただけますと幸いです」「ご多忙のところこのようなお伺いを大変申し訳ございません」そんなに申し訳、ないのだろうかと思いながらまた一つ、「申し訳ございません」と打った。
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なんだか、最近人が遠いな、と思うことが多い。それは出勤してすぐそこにいる同僚も、リモートですぐ連絡を取れる相手でも。
複数名で日程を調整しなければいけない時、(まだエクセルを使っている弊社なのだが)「差し支えの時間はグレーで塗りつぶし、OKの場所は黄色で塗りつぶしてください」と頼んだものが何の断りもなく黄色だけで返ってきてしまい、わたしがグレーで塗った。「頼んだんだけどな」と思いながら、無駄に悲しまないように心を固定させてグレーで塗りつぶした。
メールでAさんに頼まれた仕事を「やりました」と成果物をメールで送り返したら、何のお礼もなく、2時間近く経って、頼んできたAさんからBさん宛のメールでその成果物が使われていたこともあった。結果として役に立てていたのだけれど、ちゃんと届いたのか不安だった2時間が心に微かな屑のように散った。
その人にはその人の事情があって、自分からは想像もつかないほどに忙しいのかもしれないけれど、なんだか自分の仕事・言動と、それに対して返ってくるものが最近バランスが悪くて、とても人を遠く感じる。その相手の状況がわからないからこそ、その人に簡単に嫌な感情を抱けてしまうのだけれど、それが嫌で、でも遠くて、心細い。心細くて、だから“誰かに連絡を送ること=その人の負担になる”と思ってしまって「申し訳ございません」を多用してしまうのだった。
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そんな日に、村田沙耶香さんの「生命式」という短編集を読んだ。その中の『魔法のからだ』という短編にこんな言葉が出てくる。
私たちはまだ危うくて、だから、強い言葉とか、世界を支配している大人の作った価値観に、簡単に突き飛ばされてしまう。そのたびに、私たちは呪文を唱えて、自分の体を自分のものにしてあげないといけないんだ。それはきっととても大変なことだけれど、そうして守らないと私たちの大切な世界は壊れてしまうんだ。
自分が悪くもないことに謝るのは決して良いことだとは思わないが、それでもわたしが「申し訳ございません」を使ってしまうのは、誰かの見えない忙しさや事情を大切に思いたい(無碍に扱いたくない)という世界を守る故の呪文なのかもしれないと、思った。
自分の事情もある代わりに相手にも事情があって、自分の差し出したものに満点のものは返ってこないけれど、それにすぐにマイナスに感情が動いてしまうようにはなりたくなかった。呪文を通して、相手を思いやる自分を、その自分の世界を守りたかったのかもしれない。(もっと違う道もある気がするけれど)
わたしもまだまだ危うくて、すぐに振り子のようにぶわんぶわん揺れる。でも、ただの独りよがりにもなりたくないし、誰かに自分の価値観を突き飛ばされたくもない。心の動きを、それに準じて出ている表現を温かく抱えて、大切なものを大切に守り続ける人でありたい。