どもる私と、どもらない私。
誰かと喋る時、思うように言葉が出てこないことや、気がついたら自分でも意味のわからないことを言うことが多々ある。なんだか一歩つまづくと、もう急降下していく感覚がある。
今日も、午前中、ふいに先輩に声を掛けてもらい話している時、「わたしも1年目の時締め切りのギリギリに出して大変でした〜」と言いたかったのが、“1年目”を“1年前”に間違えて、「わたしも1年前…あ、違う、あ、1年目の時に締め切りの時間に…大変でした…」の様な(よく覚えていないが)よくわからない言葉をたじたじしながら発していた。話しながら、つまづいた自分にマスクの下の顔がすごくほてって、話し終えた後、その一言しか発していないのに無償につかれた感じがした。そしてものすごく時間を使って、相手を待たしてしまった感じがした。
夕方、上司からさらっと忘年会に誘わた。少人数のさらっとした会とのことなので、喜んでお受けしてジャンルを聞かれた。その時も、和食がいいな〜と「和食」というワードが頭を埋めていたにもかかわらず、なんだか言えなくて「あ、あ、後で考えて送ります」と気づいたら言っていた。ダメな日ある?と聞かれたときも「木曜はあんまりダメです」などとよくわからないことを言って、「あ、それでも、結構大丈夫です」とよくわからないことを付け加えていた。みるみるうちに、また顔がほてって、額からも髪の生え際からも冷や汗をかいているのを感じた。お誘いを受けて嬉しかったのに、全く上手く喋れなくて(ジャンルですら持ち越しにして)、そんな自分にどっと疲れた。
店員さんと話すときや、仕事の決まった話をするとき、電話対応などでは、スムーズに、おかしくない言葉が出てくるのに、予定になかった会話の時は言葉が出なかったり、変な言葉がぼろぼろ出てしまう。こうしているうちに話すことの苦手意識が強くなり、どんどん誰かと話すことに緊張してしまう。
昔、友人に「思ってから言うまでに、何枚もフィルターがあるでしょ、もっと何でも言っていいよ!」と言われたことがある。彼女の言う通り、わたしは思ってから言うまでが、ものすごく遠い。何枚ものフィルターを通して、言うまでやっと辿り着く。
それでも1対1の会話であると、言葉のキャッチボールのリズムから、すべての言葉にフィルターを通しきれないこともある。そうすると、自分でも何を言っているんだろう?という単語が口からぼろぼろと出ている感じがするし、逆にフィルターを通しすぎて言葉に詰まることもある。
今回であれば「一年目の大変だった経験を言おう」とか、「木曜は予定があると言おう」のように、言いたいことに気を取られるとその他の言葉まで気が回らない。そうして、25年も日本に住んでいるのに、文章として成り立っていない言葉が口から出てしまう。
・・・
そんな自分に嫌気を感じながら帰路に着いている時、『どもる体』(伊藤 亜紗著/医学書院)という本の題名をふと思い出し、本屋に寄って購入した。
「体のコントロールを外れたところ」に生起するどもりを、「自分のものでありながら自分のものでない体」を携えてどう生きるか、体のコントロールに「ノる」のか「乗っ取られるのか」、など、どもる言葉ではなくどもる体に焦点を当てた本である。
まだパラパラとしか文字を追えていないけれど、以下の見つけた言葉が気になってページに折り目をつけた。
思ったのとは違うことを言う自分もまた自分である。裏を返せば、ここにあるのは、「自分とは、そもそもそのようにズレていくものである」と言う感覚でしょう。(中略)けれども、思いから半ば切断されているそれも、やはり自分の体がやった行いであることには変わらない。ズレていても、それもまた自分なのです。(230)
いかにこの言葉がうまく使えない自分を「なくすか」、フィルターをうまく使いこなせない自分をどう「直すか」と考えていたけれど、そうどもってしまう自分をも受け入れ、それをさらに上から見る視点が必要なのかもしれない。
対する人によって、自分の中にも複数の分人が存するように、分人に合わせた工夫を使いこなす視点が、社会的基盤である喋るというものに対峙するには必要なのかもしれない。
身体は謎ばかりだ。意識していないのに、言葉が出なかったり、涙が出てしまったり、起きれなかったり、足が早く動いたり、ニキビができたり。対する人によって、同じ行動でも違う身体の動きが出たり。身体はままならなくて、そんな身体をわたしは抱えて生きていく。謎から少し出た“どもる”というヒントを、なかったことにせず、無理に直そうとせず、いかに付き合うか、そんな姿勢が大切なのかもしれない。
明日から、ゆっくりこの本を読むぞ。