見出し画像

心が追い付く音楽

ラヴィン・スプーンフルの音楽はいつ聴いても素敵だ。必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽だ。そんな心の和む音楽に耳を澄ませていると、1960年代の半ばに僕の身に起こったいろんなものごとの記憶が、少しずつ目を覚ましていく。どれもたいした出来事ではない。(中略)でも僕にしてみれば、それなりに意味を持つ、有用な思い出だ。そんなあれこれを思い出しながら、知らず知らず微笑んだり、ほんの少し難しい顔をしたりしているかもしれない。そして僕はーーそんな様々なありきたりの出来事の堆積の末にーー今ここにいる。く愛のノースショアに。人生について考えると、ときどき自分が浜に打ち上げられた一本の流木に過ぎないような気がしてくる。(19)
村上春樹『走ることについて語るとき僕の語ること』

夕方に本屋で購入した本書を読み進める中で、音楽についての素敵な描写だなと思って、ページの左端に折り目をつけた。

・・・

よく、音楽好きの友人と話していると「歌詞がいいんだよね」と友人の好きな曲や歌手を推されることがあるのだけれど、わたしは何か音楽を聴くとき、正直にそんなに歌詞に着目したことがない。というより、なんとなく歌詞が流れていってしまって身体や心が歌詞に追いついていけていない感覚がある。

聴くのは決まってJ-POPが多いのだけれど、どうしてか音の流れとしてその曲を認識しているように思う。だからか、カラオケに行くと、Aメロの歌詞がどんな音に乗っていたかわからず本当に毎回困る。

ずっと、好きな歌手とか好きな曲とかがあまりなかった。小学生の頃も金曜夜の晩ご飯のお供にMステを観ているような家庭だったのだけれど、それはなんとなく幼心にも「流行を追うため」に観ていたような気がした。学校で友人らが話す会話についていけるように、今こんな歌手がいて、こんな曲が流行っているんだ、そんなことをそこで吸収していたような気がした。

中学生の頃に、初めて自分のウォークマンを手に入れ、移動中も音楽を聴けるようになったけれど、中に入っている音楽は決まって流行っている音楽だった。TSUTAYAで、今週のTOP10などから、CDを選び、それを入れる。飽きたら、また同じように推されているCDを借りて、入れた。そんなことも少しずつめんどくさくなって、気がついたら数ヶ月プレイリストをアップデートさせずに、同じような曲をリピートして聴いていたこともあった。

わたしにとって、毎日聞く音楽は耳が寂しくなければ、それで良いような節があった。

・・・

それが、ここ最近ある音楽を聴くと、なんとなくスマートフォンから目を離したり、その音楽に心から浸る瞬間がある。心がこの音楽に追いついて、この音楽の泉に浸っているような感覚になる。それでいて、例えば文章を書くときのバックグラウンドミュージックとしても、それらは邪魔しなかった。

それは、ゆっくりと土を踏み締めるように、それでいて水のように掴めず穏やかに波打ち、風のようにさらっと抜ける感じがする音楽だ。そして、たまにそこに歌手の方のやさしく力強い歌声が入ったりする。なんだか過度に励まされることもなく、ただ目の前に広がる景色を大切に心に刻みたくなるような音楽なのである。

それは、haruka  nakamuraさんの音楽や、別野加奈さんの音楽であるのだけれど、わたしはここ数ヶ月この方々の音楽を永遠リピートしている。朝の出勤時も、仕事終わりの夕暮れも、noteを書いている時も、この音楽を聴くことで穏やかな波が心に流れる。そして、なんとなく孤独だけれど、ひかりに包まれたような、静謐な、でも温かい時間が生まれるのである。

今まで、音楽は流行を追い、耳になんとなく流すものだったけれど、この穏やかに心に流れる音楽の力によってわたしの心は和み、静まり、助けられているのだな、と思えるようになってきた。

別野加奈さんの曲には、歌詞がある曲があるのだが、わたしはまだそこまで追いつけていない。歌詞にものすごくミュージシャンの方々が想いを込めているのはわかりつつ、そこまで辿り着けない自分に、どこか負い目を感じていたのだけれど、だけれど、音楽は、なんとなく雰囲気で聴くのも十分感じられているのではないか、と最近思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?