讃美歌
生きていたらいいことがあるなんて言葉、いつから誰かがついた優しい嘘だと思うようになってしまったのだろう。
死ぬことが怖かった子供のときにみていたこの世界ってきっと願っていなくても神様が隣にいて、四六時中毛布にくるまれているような温かさを感じていた気がする。その温かさは人を信じることを疑わなかった素直さと純粋さの恩恵として受けていたものなのか、何かの見返りなんかではなく子供のときにだけ無条件に与えられる愛情だったのかわからないけれど。
生きるのが怖くなってしまったのはいつからだろうか。「死にたい」と叫んだ時、「死なないで」と叫び返されることがあまりにも辛い。返される叫びが悲痛なものであればあるほど。こんな人間のことを本気で生きていてほしいと願ってくれる人がいるという事実に捨てたはずの感情が動かされてしまう。自分が生きていていい人間だと立証したいがために「死にたい」と願ってしまうのか。そんな自分があまりにも哀れで憎い。
就職活動が終わって社会に出ることが決まった時から突然「不吉な塊」が心に棲みつくようになった。かの有名な、梶井基次郎の『檸檬』の書き出し、「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始おさえてつけていた。」に突然共感できるようになった。高校時代、何十人もの人間が、机を囲み理解しようとした「不吉な塊」。みんな口を揃えてわからないと嘆いていた「不吉な塊」をとうとう理解できてしまう日が来てしまうなんて。
あの時、出なかった結論も、今なら全員で答えられるのだろうか。あの時、周りに合わせ頭を悩ませているように見せかけていたけれど、実は理解できていた人はいたのだろうか。この問いを投げかけてきた彼女は、この感情を正しく理解していたのだろうか。私たちよりも先を生きていた彼女の心の中には、「不吉な塊」が存在していたのだろうか。理解できる者の目には、理解できない私たちは幼いものとして映っていたのだろうか。
「不吉な塊」はもはや完全に消えることはないから、彼が檸檬を握ることで和らげていたように、私は文学と音楽に触れて和らげていく。同時に、私には誰かの「不吉な塊」を消し去ることができないという才能にまた悩まされるのだけれど。
悲しい夜に聴く歌がある。小沢健二の『天使たちのシーン』である。私が生まれる何年も前にリリースされ、当時の弱くもあり強くなりたいと願う人たちを救ったその曲は、何十年か経って突然私のもと讃美歌として流れてきた。
"神様を信じる強さを僕に 生きることを諦めてしまわぬように"
まるで詩を読んでいるかのように、なめらかでたおやかに紡がれていく歌詞の1節であるその力強い祈りは、聴く度に私の心を穏やかにしてくれる。
あの頃わたしを守ってくれていて寄り添っていてくれた神様、また私の隣に来てくれませんか。
少女はいつまで経っても少女であるように、一度生きたいと願って生まれてきた私たちは、どれだけ心の中に光を失ってもまだ生きることを諦めたくないのだ。
体も心も錘がついたように動かなくなってしまって、声を出すことも文を紡ぐことをできない夜は、この曲を聴いて眠りたいと思う。
祈りは自分で届けることができなくても、誰かの祈りに共鳴して神様に届けることはできると思うから。