ことばと身体性
今、この瞬間、宙に投げ出されたことばは、どこに落ちるのだろうか。
歌、唄、詩、うた・・・。
そのことについて考えるとき、必ずついてくるのは、ことばと身体性との関係だ。
自分で何か声を、ことばを発するとき。
誰かのことばやうたを詠むとき。
自分の声、ことばは、このからだを通って出てくる。
何かを言おうと、声を発しようと試みるそのとき、からだは準備する。
そのようにして生み出された声やことばは、どんな風に聞こえるだろうか。
どんな響きを持ち、どんな風に鳴るだろうか。
そして、このからだは、どう反応するのだろうか。
どういうプロセスを辿って、声やことばになってくるのだろうか。
それは、果たして自分が発しているのか、発せられているのか、
どちらなのだろうか。
響き、振動という点から見れば、身体も空気も、空間もモノも、未分化であり、混じり合って境界が曖昧になっている。
みんなそれぞれ、どんな風に震えるのだろう。
今、この瞬間、声やことばを発したからだは、泣いているのだろうか。
悲しんでいるのだろうか。恐れているのだろうか。
喜んでいるのか、はしゃいでいるのか。
そういった声にも意識を集中したくなってくる。
発した先には何があるのか。誰が居るのか。
空間か、生き物か、なにもないのか。
どんな影響を受けて、自分は今、いや、誰もが、
何か声やことばを発せようとしているのか。
うた、というものを考えるとき、最近はよくそのことが頭によぎる。
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