桜が散った頃には ~小学校低学年時代~


小学校に入学した。ピカピカの一年生…だったかはわからない。


共働き家庭に生まれたぼくは、小学校に上がっても家に人がいないので、7歳の頃から毎日バスを乗り継いで別の地区の学童保育に通っていた。

当時は、ぼくが所属する小学校にはまだ学童がなかったからだ。

今思えば、とんでもなく物忘れが激しく抜けているぼくからすると、本当によくやっていた。今のぼくから褒めてあげたい。




小学校低学年時代を一言で表すと、”引っ込み思案”だと思う。

授業が始まり、先生が「この問題分かる人ー!」と言えば、いたるところから大きな声で、はい!はい!と声が上がる。

その中でぼくは、決して手を上げない子どもだった。



はずかしかったのか、緊張していたのか。両方あったと思う。

当時のぼくは、かなりの上がり症で、授業中は先生に当てられて答えるのも億劫だった。できれば何事もなく授業が終わってほしいと願っていた。

しかし、そんなときに限って当てられる。しぶしぶ答えていたが、本当はとても嫌だった。なぜかはわからない。


今でも人前で何かを話すとか、注目を浴びるということには慣れていないし、とんでもなく緊張し顔が火照り赤らむ。


――――――――――――――――――――――――――


特に記憶に残っているのは、クラスにいじめっ子がいたこと、そして担任の先生が優しかったことだろう。


担任の先生は女性だった。

当時のぼくは、男女の性とか、ジェンダー観とか、そういうものをまだ持ち合わせてはいなかったが、笑顔が柔らかくて、そっと見守ってくれる先生だったのは感覚的に覚えている。

たぶん、うまく学校やクラスに馴染めていなかったけど、なんとか過ごせていたのは、あの先生が担任だったから。ただ、具体的にどんな先生だったとか、顔をはっきりと思い出せるわけではない。あくまでも「そんな感じだった」という断片的な記憶だけがぼくの中で佇んでいるだけだ。


そんな先生の元だったが、大人しく授業中はじっと下を向いてるようなぼくなので、いじめっ子には目を付けられやすかった。



今でも印象的なのは、輪ゴム鉄砲事件(というほどでもないが)だ。

休み時間、椅子に座ってやり過ごしていたぼくに、絶えずちょっかいをかけてくるやつがいた。

今だから、そいつも誰かをターゲットにすることで自我を保っていたということがわかるが、小学生にそんなことはわかるわけもないし、反抗すること、いや、反抗の仕方がわからない、反抗などしてはいけないと思っていたぼくは、そいつの標的としての役を、ただ受け入れ演じることしかできなかった。


当時、割りばしで輪ゴム鉄砲を作り、撃ち合う遊びが流行っていた。

そいつは、椅子に座るぼくに向かって、ひたすらに輪ゴムを撃ち続けていた。

こちらが反旗を翻してこないとわかっての確信犯として。


じっと、じっと耐える。休み時間が終わるまで。

何も言うこともせず、何かを起こそうともせず、ただ、じっと。

泣いてもいなかったと思う。悲しむ余裕もなかった。


そうして、短い10分間戦争(一方的な)を耐え忍び、再び授業を受ける。

その苦しみと忍耐の、身体性を伴った思い出は、今でもこうして文章に起こすことができるほど、ぼくには強烈だった。





無力感と自己効力感のなさ、自己肯定感の低さという決して抜けることのない小さな刃が、今でもぼくの胸の奥のほうに、ひっそりと、しかしはっきりとした存在感を示し続けている。



そして、怒りや悲しみ、苦しみの声といった、ぼくの内側から聞こえるネガティブな叫びは、決してぼくに気付かれることはなく、周りから言い聞かされた「いい子の呪い」に封じ込められ、行き場をなくしたまま、ただぼくの中を。存在しないものとして彷徨い続けた。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?