まとまらないものの中に
最近、坂口恭平さんの著書を片っ端から読むほどハマってるんだけど、この人は本当に不思議だ。
無茶苦茶で、とても人間臭くて、自分の中身を全て曝け出している。常に今をもがきながら生きてる。生きようとしてる。その姿がとても美しくて、気づいたらその人のことを好きになってしまっていた。たぶん共鳴するところもあるからだと思う。
恭平さんは著書「まとまらない人」の中で『自分がかっこいいと思う音楽と、自分の中から自然と湧き出てくる音楽のイメージが全然違う』と話されていた。
その感覚がとてもよくわかる。
また『僕たちは自分で表現してるようでいて、実はこれまで生きてきた数多の人たちが繋いできた中で生きていて、瞬間的に生まれるものはそういった過去の記憶も引き継いでいる(解釈要約)』と。
最近、自分の中の表現の種じゃないが、とても原始的なものが自分の中で息づいている、と思うことがよくある。
それは自然と一体だし(一体になりたいのが正確かもしれない)、水の感触や音、風の匂い、土の暖かさ、葉脈の奥に広がる宇宙、燃える火の静けさとか。言葉にするとありふれた描写になってしまうけど、とにかくそういった情景がある。これらはそれぞれ単独で存在しているわけでもなくて、複数のイメージがごっちゃになってる。
また、歌にしても音楽にしても、ぼくは今の気持ちを歌にしました、みたいなのがたぶん苦手。表現したい何か、伝えたい何かみたいなのもあまりなくて、なんというか、言葉にできないもの、自分の中で形を持たずに渦巻いているものを、自分の中のリアルを、そのまま出したい。そういう欲求がある。綺麗に纏まってなくてもいい、“ちゃんとした”ものにしなくてもいい。ただ出す。鳴らすとか歌うとか、ぼくにとっては今その場にあるもので、ガーっとやっちゃう。人間とはそういうものだと勝手に考えてる。
だってさ、自然も人間も、わからないもん。どう考えても複雑でカオスだし、何かわかりやすい形でもない。
けど、対峙したら何か起こる。エネルギーを受け取るし、見えないところでやり取りしてる。
思想や哲学というのは常にある。
けど、それを歌や音楽にするのはなんか感覚的に違和感があるし、きっと伝わらない。それはちゃんと言葉で伝えたい。
そうじゃなくて、内側から湧き出てきたもの、エネルギーをそのまま出したものに、自分が宿ってる(結果として)ってのに、とても魅力を感じる。
そら、節々に何かわかりやすいパズルのピースが散らばってる可能性もあるが、意図したくない。
抽象的なものを、現実の原則にはそぐわないような頭の中のリアルを、そのまま出せたら、どんなに楽しいだろうかと、いつも悶々としている。
それはとてもシンプルなんだけど、だからこそ難しい。シンプルに、複雑なものをそのまま出す。
そのルーツが、ぼくの場合は自然にあったり、民族的な儀式や祭典、聖歌、童謡、神話など、古くから脈々と受け継がれてきた、土着的な性質のものにある気がしている。今はまだここまでしか言葉にできない。
音楽にするなら、本当はわかりやすい言葉には還元したくない(言葉にするというのは、つまりは思考の幅を狭めて、言葉にすればするほど感情の揺らぎも温度も縮こまってしまうから。言葉でそれを越えようというのが、ぼくは小説家や物書きの生きる理由だと思っている)。
歌は、声とか叫びとか遠吠えとか、もっともっと動物的で、ものすごいパワーと表現しがたいイメージを孕んでいるから、そういうものの可能性とか、ひいては自分の知らない人間という生き物についての探究心なんだけれども、そこと出会いたい、という気持ちでいる。
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