「有害な男らしさ」とはなにか
私はとあるきっかけで、LGBTに興味を持ったことからSOGIや性教育についても調べるようになった。
そんななかで太田啓子さんの「これからの男の子たちへ」という本に出会い、読んでいる。
この本では二児の男の子を育てながら、弁護士をされている太田さんが感じる子育ての上でのジェンダーバイアスについて書かれている。
「有害な男らしさ」
本書の中で「有害な男らしさ」という言葉に出会った。社会心理学者の方の言葉だそうだが、この厄介な「有害な男らしさ」は女性や男性自身を傷つけてしまうという。
男性は、その多くが男性たちの社会の中で生き、「ホモソーシャル」の中でその関係性独自のルールのもと生きている。「男性性」はそんな男性社会で自然と男性に身についていくものらしい。その「男性性」は、知らないうちに男性自身を苦しめているというのだ。
様々なことを発見し学びながら思ったのは、「有害な男らしさ」があるのなら「有害な女らしさ」だってあるのではないか、ということ。
「有害な女らしさ」はたとえばなんだろう、と私が考えて浮かんだのは、悪口や品評で仲を深める、ということが当たり前のように語られることだ。
よく言われる女性像として、女性についての話題はもちろん男性についての話題まで、中にはきつい言い回しをして、他人を品評して、謎の結束感を作っていく、というものがあるように思う。
そういう女性たちの姿を、「女性はそういうもの」という言葉を免罪符かのように使って語られることもあるが、客観的に考えて人を傷つける言葉を使って人を語っていいわけじゃない。
女性自身だって、そんな他人からの評価におびえながら生きている。
それなのにそれが「当たり前」だから。自分もそのルールに飲まれて、疑わずに生きていく。そんなのおかしくないだろうか。
自身を苦しめるルールを「当たり前」とする、それはまさにこの本で語られる「有害な男らしさ」に共通するところが大いにあるのではないかと思う。
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