私が推しの子になればいい。
色んなnoteを読む中で、これが目に止まりました。物理における場の理論という見方を、クルト・レヴィン(以下レヴィン)という方が個人の行動に対して適用しようとしたそうです。
個人における場の理論。
ざっくり言えば、個人の振る舞いは個性と環境で決まるという話です。この理論について、レヴィンは自然現象を説明する法則というより現象を認識する一つの見方と捉えています。
レヴィンは「良い理論ほど実践的なものはない」という言葉を残しています。彼の理論は解釈としての意味合いが強く、「良い」の定義は重要ですね。彼の意図を汲み、理論の正確な概形を探るのも面白いかもしれません。
能力や環境ではなく姿勢を変える。
とはいえ、私は今この瞬間の解釈を面白くできれば十分だとも感じています。あくまでも、彼のアイデアをきっかけに日々を過ごす中での姿勢について考えたいんですよね。
まず私の理想は私という個人が活躍することです。もっと言えば、私を磨いて輝かせたい。その観点では私の個性は「良い」という基準で判断するものではないんですよね。見つかるものではあるものの能力的な個性などは調整できるものではないといいますか。
一方で、環境についてはどうでしょう。端的に言えば、私自身の活躍が求められれば「良い」と言えるのでしょう。ただ、その環境が整うまで待つのは面白くないです。それよりは、どんな環境も味方にする解釈ができるようになった方が良い気がしています。
そこで思い浮かぶのは、バディカ中野社長の「人に良く見られるゲームに打ち勝ちにいく。」という言葉です。この姿勢を維持していれば、環境を味方につけやすいのかなと思います。
私が推しの子になればいい。
とはいえ、推されたり応援される環境には魅力を感じます。そのあたりの話になると、推しの子の「有馬かな」が他人に見えません。これはどうしたって環境の要素で運命的なものではありますが、推されたい人の存在はモチベーションになりますよね。
そのうち、私が推されたいと感じる人も現れてしまうのでしょう。どんな人か想像もつきませんが。とはいえ待つのも面白くありません。そこも自分で何とかしてしまいたいです。となると、私が私を推せばいいのでしょうね。それなら何とかなる気がします。
他人から推されるにしても、やることは変わらないですよね。好かれるための演技ではなく、自身の活躍そのものを推されたいのであればなおさらです。より活躍して、より輝いて、見つかってしまえばいい。
結局のところ、推しのmiCometのように出来事に真摯に向き合い、自身を磨き、時期が来ようが来まいが過ごしていくべきなのでしょう。なんとなくですが、こういう過程を経て2人も現在にいたっているのではないかと想像したりもします。