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名前を知るという行為−試験結果の不安から哲学したくなったニート
●小説の一文
「(花や木々の名前を知っているということは)俺の見てる景色とは違うものが見えてるんだろうな。」
という宮下奈緒さんの「羊と鋼の森」の中で、新米の調律師として働く主人公とその上司の会話の一文。
「人・モノ・コトがちゃんと見える」というのは、この名前を知るというところから始まるのではないかと思ったという話。
ぼくは過去から現在まで、主に環境に関心があり、環境問題を扱う職場にいる。
環境問題というのは目に見えないものが多い。
ハっと気づいたときには、問題が生じているもしくは、そこからなくなっている。
先日も妹の旦那がTsutayaのDVDをGEOに返してしまったという文章を書いた。今日も信号で自分の前に止まっていた車の色や車種などまったく覚えていない。
人は本当に認識するという行為が苦手だ。
しかし認識するという行為は、人生を豊かにし彩りのあるものにする。それが小説の1文なのだろう。
例えば、森に行ったとする。木々や花などの植物がある。しかし興味がなければ、「木」として認識されるだけで、そこは「緑」と道の「茶色」の2色だ。一方で植物の名前を知っている人、場合によっては個体差まで把握してる人だと、無限大に色が広がって見えているはずだ。
同じ自然をみてるのに。
「興味を持つ」ということが推奨されている。興味を持つことでモノが見えるようになるという。興味を持つだけで本当に「モノが見えている」のだろうか?
「興味をもち、それを知ろうとする。」まで行かないと、本当は認識できていなんじゃなかろうか。
知るという行為の一つが、名前だ。
車に興味のない人からみて、車は車であって1つだ。アニメに興味の無い人はアニメで1つだ。車の会社名を知ろうとする。車種を知ろうとする。それが認識に繋がっていくのではなかろうか。
この認識する行為が増えれば増えるほど、人生が豊かになる気がする。1つのモノを掘り下げれば掘り下げるほど、オタクになる。
オタクは実は人生が豊かなのかもしれないと電波教師を読みながら思う。
環境問題はどこにいった?