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札バン研究所「あずまりゅーた『僕の事情』全曲解析①

こちら、札バン研究所

札幌を拠点とするバンド、略して札バン。

その音楽を研究する今回は、バンドではなく、ソロアーティスト。アコギ一本で自作曲を弾き語る、1994年生まれ、あずまりゅーた。

彼のアルバム『僕の事情』に収録された全10曲から、第1回は、アルバムの全体像と、1~3曲目を解析する。


これは実にコンセプトアルバム

1967年にリリースされたビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が、史上初のコンセプトアルバムとされている。

ばらばらに制作された曲を集めて、1枚のレコードにするのではなく、初めにテーマを設定し、それに基づく曲ばかりで構成したアルバムのこと。通常のアルバムが短編集なら、コンセプトアルバムは連作短編ないしは長編小説と言えるだろう。

もっともジョン・レノンは『サージェントペパーズ』のコンセプトなんて、ポール・マッカートニーの後付けで、初めはそんなこと考えてもいなかったと回想しているが、ともあれ、70年代には長大な楽曲の多いプログレ系のバンドなんかが、よくつくっていた。

いまでは配信やサブスクが中心で、曲はばら売りが当たり前。勢いコンセプトアルバムなんて、とっくに時代遅れかと思っていたが、あずまりゅーたのCD『僕の事情』は先祖返りなのか突然変異なのか、このトラディショナルなスタイルを見事にアップデートしてみせた。

コンセプトは、タイトル通り、「僕」である。

古くさっ、と誤解されると困るけど、敢えて喩えるなら「私小説」的。「自分」というものを徹底的に見つめて、見つめきって、これも古い言い回しだが「赤裸々」と言いたいほど生々しくさらけ出す歌たちが、この1枚に凝縮されている。

だからと言って、自分大好きちゃんによる「私の想い」だとか「私の主張」だとか、ナルシスティックな「僕を見て!」表現とは比較にならない、ひりひりするリアリティーがある。

冷静に自分を観察し、分析し、表現する、厳しく、苛烈な魂がある。

その微妙な違いを、「事情」という言葉は、なんと的確に表していることか。

事情は事実に立脚している。事実を伴わない事情はない。その意味で、これは充分に客観的だ。

加えてそこには「情」がある。事実の列挙に留まらない、時々の感情の爆発、揺らめき、流れがある。それは当然、極めて主観的だ。

主客が入り乱れ、立体的に自己を浮き彫りにしていく。そんなアルバムの成り立ちを、「事情」の一言は余すところなく伝えているのだ。

では、以下、各曲ごとに見ていこう。


#1 僕の事情

アルバムと同タイトルなので、メイントラックかと思いきや、そうではなく、むしろ全体のイントロダクション。いわば表紙に当たる、30秒ほどの曲で、しかも歌ではない。アンプから出るノイズや、チューニングするように6弦から順次鳴らされるエレキの音などを背景に、「僕の事情」という言葉をさまざまなニュアンスで読む。その声を重ね合わせたサウンドコラージュなのだ。それにしても、読みがうまい。同じ言葉なのに、これだけいろんな読みが出来るのは、シンガーと言うより役者みたいだ。

やがてギターのノイズがクレッシェンドし、ふっと無音になったところから、本編となる2曲目が始まる。

ライブでは、このサウンドがそのままオープニングに使われることもある。


#2 吐いて捨てた「I」

前曲を受けて、いきなりアカペラで歌い出される。

あずまりゅーたの声は、いわゆる美声でもないし、スモーキーな嗄れ声でもない。しかし透明感がありながら、路上で鍛えたのか、どこかざらつきがある。言ってみれば、傷だらけのガラスのような声。過度に技巧的ではない歌い方も含めて、とてもリアルに響く。

キィーは、ギター的にはめちゃくちゃ弾きにくいA♭。バッキングはほぼアコギ1本なので、半音下げチューニングにして、Aでプレイしているようだ。この曲に限らず、チューニングは基本、半音下げと思われる。

後半、♪エレキギターで殴りにいこうぜ という歌詞のところから、言葉通り、エレキの歪んだ音が被さって厚みを加える。

コード進行はシンプルで、ゆったりとしたテンポのハネるリズムが刻まれる。

Aメロから徐々に盛り上げサビで爆発という王道の構成ではなく、のっけからテンションは高く、メロディーも、どれがサビでどれがAメロなのか、判然としない。ある意味、全てのセクションがサビとも言える強さを持っている。

そして、この歌の最大の凄味は、やはり歌詞と、ボーカルにあるだろう。

 ♪ 吐いて捨てる程のカスが 僕の街にもいるわ

   吐いて捨てた愛のカスを 舐めていたわ

この冒頭の歌詞に、まずやられる。

「掃いて捨てる」ではなく「吐いて捨てる」

しかも、吐いて捨てた愛のカスを「舐める」

「吐く」「舐める」という、粘液性の濃いふたつの言葉が、生々しい。

あずまりゅーたは、たっぷりと1音1音を伸ばして、レガート気味に歌い出しながら、「街 にも いる わ~」の箇所で不意にぶつギレにして隙間をつくり、効果的にグルーブを表現する。彼の声が持つ、ざらついたストリートの質感が歌詞とあいまって、「僕の街」を目の前に浮かび上がらせる。

このセクションでは、そうした彼ら「カス」たちを、「僕」は他人事として批判的に眺めている。しかし、すぐ次のセクションで事態は一変する。

 ♪ I 哀 愛されたいね

繰り返される「あい」という言葉、「愛されたいね」という共感の言葉が、一気に「僕」を「カス」と同列の位置に放り込む。観察者だったはずの僕がいつの間にかカスたちと一緒に愛のカスを舐めている。

さらに次のセクションでは、

 ♪ 僕を見てて 僕を見て 僕を見てて 此処にいるのよ

と来て、あれ、これはもしかして、ナルちゃん的な「僕を見て」連呼に堕落するのか、と一瞬警戒するが、

 ♪ 何も知らないくせに

   そんなに知りたくもないくせに

という皮肉な冷静さを挟んで、

 ♪ 君のことをいつだって 分かったフリする奴らを

  エレキギターで殴りにいこうぜ

突然「君」が登場し、「僕の事情」は一気に「僕たちの事情」として普遍化されるのだ。

TheyからIへ、そして君と僕のWeへ。

主語が自由に変化して、聴き手を否応なしに巻き込んでいく。

この経験を踏まえていると、二度目に出て来る

 ♪ 僕を見てて 僕を見て 僕を見てて

の箇所の、激しいブレス音が頻繁に入る、喘ぐような、引き攣ったような絶唱も、ナルちゃんな「見て見て」などではなく、ジョン・レノンの「Look at me」にも比肩しうる、しかしジョンの静かな呟きとは真逆の、自己の存在証明を賭けた叫びに響く。その瞬間、もはや誰もが他人事ではいられない。

ちなみにタイトルだが、これは「はきすてたアイ」とも読めるけど、Iはローマ字と解釈して、「はきすてたい」と読むのかな。


#3 SEX=アタシとアンタ

これは、80年代に大活躍したバービーボーイズを想起させる、男女の掛け合いソング。女性ボーカリストはフクダサキ。

こちらもキィーがA♭(半音下げでA)。テンポの速い、弾むビートの楽曲である。

歌詞とメロディーの両面から分析してみると、冒頭のセクションが実に巧みにつくられていることに気づく。

 ♪ this is 最高にちょうどいい

   ブサイクな女を抱きたくなって

   is this これで俺は俺って

   ちょっと何言ってるかわからんけど

この歌詞が、軽快なテンポとポップと言っていい明るいメロディーに乗って、ビブラート豊かに歌われる。「ブサイク」という言葉にはふさわしくない、あっけらかんとした雰囲気。

ところが、4行目、酔っ払った勢いで単にヤリたくなっただけのくせに、「これで俺は俺」と正当化する自分に、「わけわからん」と自分でツッコミを入れるところ。ここのコードは、西洋音楽的にはD♭であるべきなんだが、敢えてD♭7が使われている。

これで、明るいポップスが一転、ブルースになって陰影を帯びるのだ。

酔っ払って、言うことが支離滅裂になった時の軽い狂った感じが、この突然のブルースでうまく表現されている。

続いて、同じメロディーを女の子が歌う。

 ♪ kiss me ここでキスしてね

   繋いだこの手は二度と離さないで

   もしもこの手を離したら

   アタシこのままホームに飛び込むわ

ポップなメロディー、キスをせがむスイートな歌詞。これが同様に最後の1行で、D♭7のブルースになる。メロディーも少し変わって、ここでは明確にブルーノートが歌われ、しかも男女のユニゾンになるため、陰鬱なブルースへの転換は一層鮮やか。歌詞も、自殺をほのめかす脅迫へと、見事に一変する。ちょっとしたサイコパスものの映画のようだ。

20世紀の初めにブルースを発見した白人は、西洋音楽では決して使われないブルーノートの響きに不穏な恐怖を感じ、これを「悪魔の音楽」と呼んだ。

そこから派生したロックがグローバルスタンダードになったいまは、もうそれほどでもないけど、それでも、この箇所の歌詞とブルーノートの組み合わせは、ありふれた人間の心に潜む悪魔性を効果的に表現していると思う。

酒に酔うことも一時的な狂気だし、メンヘラな女の子の脅迫も軽い狂気なんだから。

この曲の構成もまた自由で、どのセクションもサビのようだし、明確に1番、2番と組み立てられてはいない。

メインボーカルの裏には、時にコーラスや、話し声などが重ねられていて、1曲目の「僕の事情」のような、サウンドコラージュ風の趣向が耳を惹く。

弾き語り系アーティストのCDは、ライブの演奏をそのままパッケージしたようなものが多いし、このアルバムも基本的なアレンジは、アコギの弾き語りベースにしている。しかし、この曲以外にも随所で、こういう複雑な声の重ねやエレキとアコギの共鳴があって、非常に音響的につくられているのが特徴だ。

恐らくあずまりゅーたは、ライブと録音作品を別ものと捉えているのではないか。だから、録ったなりでそのまま盤に定着するのではなく、さまざまな音を後から加えて、スタジオ作品ならではの工夫を凝らし、ライブとは異なる独立した表現を創り上げているのだろう。

プロデューサーのクレジットがないので、セルフ・プロデュースだとすれば、これはあずまりゅーたの創意なのか。

あるいは、RECORDING/MIX/MASTERINGとクレジットされている、高田雄太の功績なのかも知れない。


to be continued……














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