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札バン研究所「あずまりゅーた東京ライブ2024レポート」
こちら、札バン研究所
札幌を拠点とするバンド、略して札バン。
その音楽を分析する当欄で、2021年6月の東京初公演をレポートした、シンガーソングライター・あずまりゅーた。
彼が、2024年12月5日、6日の両日、大塚SOHOと大久保ひかりのうまに出演した。
札バン研究所「あずまりゅーた東京初公演レポート」|吉高たかよし
この3年間、西永福JAMなどで東京ライブは行われてきたし、バンドでの公演もあった。しかし、2023年の後半から約1年ほど、諸事情により音楽活動を休止していたそうだ。
それが無事復活を果たし、札幌での盛んなライブや関西ツアーを経て、東京にも来てくれたのである。
久しぶりに見たステージを、再びレポートしたいと思う。
離見の見
能を大成した世阿弥は、『風姿花伝』という演技論を書き残している。その中で最も有名なのが「離見の見」だろう。
いきなり古臭い話のようだが、これはステージでパフォーマンスを行うすべてのジャンルのアーティストにいまでも当てはまる普遍的な理論なので、暫しおつきあいを。
簡単に言えば、舞台に立つ者は、常に観客席にもう一人の自分を置きなさい、ということである。文字通り「客観」的に、自分のパフォーマンスを見る意識を持たなければならないという教えなのだ。
この「離見の見」によって、演じたり歌ったりしている感情に自らが溺れず、冷静に判断できる。表現者でありながら、同時に批評家でもあることで、自身の表現が狙い通りに観客に届いているかを評価できるわけだ。
こう書くと、何だかひどく醒めているように聞こえるだろう。アーティストは「振り」をしているだけで、客はある種嘘に騙されていることになる。一緒に泣いたり笑ったり感動したりするのが、バカみたいだと思う向きもあるだろう。
例えば、ジョン・レノンの「マザー」という歌。最後に、もういまは亡い両親への思いが悲痛な叫びとなって繰り返され、フェイドアウトして終わる。
この録音時のマスターテープがそのまま――つまり、フェイドアウトせずに演奏がずべて終わるところまでを収録した海賊版が、あるラジオ番組で流れた。
ピアノを弾きながら声が枯れるほどシャウトしていたジョンが、ある程度のところで何か呟いて歌いやめ、バックも尻切れトンボで演奏をとめる。
ジョンは、何と呟いたのか。
実は、「まぁ、こんなもんでいいろう」って呟いたんだとDJが解説すると、共演者は「えぇー、がっかり」と言っていた。
魂の込もったシャウトだと思って感動していたのに、「こんなもん」とは何だ、という反応だ。
しかし、これこそ離見の見である。
自分のパフォーマンスを冷静に見ているからと言って、表現された感情が偽りであるわけではない。むしろ、そうしてコントロールされた表現だからこそ、真の感動が生まれる。
そういう意味では、前回のあずまりゅーたのステージには、若干歌に込めた感情の激しさに、歌い手自身が巻き込まれ、翻弄されているようなところがあった。
もちろん、その激しさに一定の魅力はあるし、それが彼の個性でもある。
しかし、やはり表現者は、自らの感情に振り回されきってはいけない。観客席にもう一人の自分を置いて、表現の効果をきちんと把握することが、逆説のようだが、パフォーマンスの純度を上げる。
理由はわからない。この1年のブランクが何か影響を与えたのか?
あるいは30歳になった彼が、年齢を重ねたということなのか?
ともあれいまのあずまりゅーたには、ごく自然に「離見の見」が備わっている。
コメディリリーフ
このことと恐らく関係があると思うのだが、今回気づいたもう一点。
あずまりゅーたの楽曲は、以前CD『僕の事情』の分析で詳しく書いたように、自分自身の負の感情――悲しみ、怒り、やるせなさetc.をさらけ出す、極めて私小説的なものである(ちなみに彼が大久保ひかりのうまで着ていたのは、太宰治の名入りTシャツであった)。
そのため、ステージでも感情の激発は負の方向に迸る。激しい哀傷、強烈な欲望、狂おしい慕情。その勢いのまま、歌いながらフロアに膝をつき、ギターをかき鳴らす。
つまり、全体がダークな色合いに染められたステージなわけだが、今回はそこに、しばしば笑いが挟まれていたのだ。
切れ目なく曲を演奏するスタイルから、適度に間を置いてMCを入れるようになったこともある。
また、名曲「アスファルトに立つ」では、途中、客席からも歌声が上がり、コール&レスポンスになったところで、いきなりオアシスの「Don't look back in anger」を歌い出した。
途端に客席は沈黙。
「ええーっ、俺の曲よりよっぽど有名じゃん!」
と本人は、天然なのか、わざとなのか、判別不能な感じでずっこけて、会場は爆笑。いやいや、もちろん曲は知ってるけど、英語だから歌詞がわかんないんだって。
ともあれ、そんな笑いが、緊迫感のある楽曲の合間にちりばめられる。以前にはなかったことだが、これもまた離見の見による客観視が生んだものと思われる。
笑いは適度な息抜きとして機能し、また楽曲の世界に戻った時、再び観客は深く没頭できるのだ。
こうした笑いの効能はハリウッドのシナリオ作法でも、コメディーリリーフと呼ばれ、確立されている。直訳すれば「喜劇による救い」だが、サスペンス映画やホラー映画であっても、見る側に緊張を強いるシーンの連続では疲れてしまうし、刺激に慣れて却って退屈する。そこで、ちょっと笑いの起こるような瞬間を挟み込んで、次のシーンの緊迫感を高めていくのである。
あずまりゅーたのステージは、「いろんな曲を聴いた」と言うより、楽曲の群れが織りなすひとつの大きな作品を聴いたと言うべき、長編性がある。その分、こうした手法はより効果的であると言えよう。
新曲について
ブランクを挟んではいたが、新曲も増えていた。「最近できた曲」として、「気分でいい」が紹介されたのは嬉しい。
「〇〇をしたり しなかったり」という構造の歌詞が重ねられ、「気分でいい そんな自分でいい」とサビに落ちる。この「気分」と「自分」を重ね合わせた言葉遊びは、やはり、あずまりゅーたの真骨頂と言える。
確固たる「自分」がある、という西洋的な思想ではなく、「気分のようにころころ変わるのが自分」という東洋的な考え方が、軽快に表現されている。
他にも、CD『僕の事情』以降の「Nerve」や「春分」も披露されたが、これらの新曲を収めた音源が入手できたら、改めて詳細に分析してみたい。