札バン研究所「月光グリーン『雪月花』全曲解析」③
こちら、札バン研究所
札幌を拠点とするバンド、略して札バン。
その音楽を研究する今回は、2003年結成、月光グリーン。
セカンド・アルバム『雪月花』に収録された全9曲の内、7~9曲目を解析する。
#7 ヌケ忍パンクス
神風グリーン時代の自主制作アルバムに、「追い忍パンクス」という曲があるので、これはその続編だろうか。自らを忍者に見立てるのは、デビュー曲「快刀乱麻を断つ」の侍イメージとも通底し、このバンドが持っている音楽的な「和」の要素を、ビジュアル的にふくらませている。
ドラムの激しいソロで幕を開けるヌケ忍の逃走劇。
ヌケ忍とは、忍者集団を抜けた、いわば脱走兵で、70年代には白戸三平が劇画に描いた題材だ。これがロックナンバーになるとは!
「逃げる」というのは、ロックの根底にあるコンセプトだと思う。ブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走」もそうだし、シェリル・クロウの「ラン・ベイビー・ラン」もそうだ。がんじがらめの社会、退屈な日常から逃走することが、ロックの精神。
それを日本的に、ヌケ忍に仮託したところが、この曲の手柄である。
逃走に相応しい、高速ビート。チュウのドラムの魅力が全開である。しかも、スピードは殺さず、メリハリをつけるため、セクションごとにきちんとリズムアレンジを変えていく。
歌詞もまた、「いろはにホヘヘイ」と同様、畳みかけるような早口で、後半になると掛け合いになってさらにボルテージが上がっていく。ドラマチックな構成だ。
ジャパニーズロックのひとつの到達点。
素晴らしくナンセンスな歌詞を、短いので、ここでは全文紹介してしまおう。
雲隠れエスケイプでかろやかFOOTS
手裏剣投げて追手に刺さって真ん中100点満点 イエイ
ドロンととんずら(逃走高飛び)東西南北(駆け抜けろ)
哀愁ただよう(川辺にたたずみ)歌うぜ孤高の(ヌケ忍パンクス)
#8 こぶしというアンテナで
恐らくアコギの弾き語りで書かれたであろう、シンプルかつストレートな曲。キーはA。サビのコード進行は、素直な循環コード(A E F#m C#m D C#m Bm E A)。
歌詞はライブそのものをテーマにしていて、冒頭の「夜が明けるまで」に呼応する。オーディエンスが振り上げる「こぶし」に着目したところがポイントだ。
オーディエンスも、アーティストも、振り上げたこぶしがアンテナのように思いを伝え合って、ライブは一瞬の共同体を現出する。その感動こそがライブの真髄であり、その象徴が「こぶし」なのだ。
テツヤも「こぶし振り上げろ!」とオーディエンスを煽るが、それは聴く側も何かを発信しており、音楽は一方通行ではなく、双方向の営みであることを示している。
その精神を楽曲化したのが、これだ。
左を向けばアイツがいて 右を向いたらコイツがいて
後ろを見ればみんなが笑っていた
この歌詞は、ライブの醍醐味を知る者なら誰もが共感するだろう。
そして、歌い手であるテツヤが、ここではステージではなくフロアにいることになるのも重要だ。そこからの目線で歌っている。
このことは、実際のライブでも、現実化される。
大体アンコールで演奏されることの多いこの曲の後半になると、テツヤはギターを置いてマイクを持ち、フロアに降りてくる。そしてオーディエンスの中に立って、時に握手し、時に肩を組み、そしてみんなで合唱する。まさに、フロアにボーカリストが実際に立つことを想定した歌詞になっているのだ。
こぶし=アンテナの見立てと、ボーカリストがオーディエンスと一体になった視点からの歌詞。ファンにとってもアンセムであるが、このふたつの独自性で、この曲は日本のロック史の中でも特異な地位を占めた。
#9 行こうぜ
前曲がラストナンバーとすれば、この曲はアンコールピース。普通はクールダウンのために、しっとりした曲になるものだが、このアルバムでは最後までバラードにはしない。いきなりローリングストーンズ張りのコードリフでスタート。キーGで、Bm Am Gと、ひとつずつシンコペーションしながら下がっていく。
歌中は、ステディーな8ビートで、歌詞に合わせて歩いていく感じを出している。
ところがこの曲、実は「待っている」歌なのだ。
夜明けまでどこかの街角で、「君」をひたすら待っている主人公。やがて日が昇る。でも月もまだ見えている。もう少し待とう。そしてとうとう月が消える。あきらめて、自分に呼びかける。
さぁ行こうぜ 道はな まだまだあるんですよ
さぁ行こうぜ 道はな まだまだ続くんです
この「君」を、ストレートに恋人ととらえてもいいだろう。何か大きな運命のようなものの象徴と見ることもできる。
それを「待つ」こと、そして来なければ潔くあきらめて、次に向かって一人歩き出すこと。これがこの歌のテーマだ。
「待つ」のは受動的な行為に見える。しかしここでは「頑張り待ち続けた自分よ」と歌われる。「待つ」ことに能動的に「頑張る」という辺りに、独特な考え方が窺える。
待てば海路の日和ありというような、楽天的で暢気な話ではなく、ある種祈りに似た行為として、人は「待つ」ことがある。それを「頑張った」と讃えたい。そんな思いが感じられる。
そう言えば、20世紀の不条理演劇を代表するサミュエル・ベケットの名作も、『ゴドーを待ちながら』だった。あの演劇で待たれているゴドーとは、何の象徴か、多くの人が議論している。いわく戦争、いわく疫病、いわく恐慌……いずれにしろ、ろくなもんじゃない。
しかし、ここで待たれている「君」は、何か素敵なものだろう。でも、それは来なかった。いくら、待っても来なかった。あきらめた主人公は、それでも「道はまだある」と歩き始める。
失望の果てにある希望。
この思想は、ファーストアルバムに収録された「あきらめよう」にもつながるだろう。「待つ」にせよ、「あきらめる」にせよ、普通はネガティブな言葉だが、そこにテツヤは、「次へ向かうためのステップ」として、前向きな意味を見出す。
ラスト、サビが繰り返され、バックが消え、ギターとボーカルだけになる。「道はな まだまだ続くんです」と歌いきって、最後に鳴らされたコードは、本来長調の曲なので、Gで解決するべき。しかし、弾かれるのはEmだ。若干の尻切れトンボ感は、もちろん「まだまだ続く」ことの表現だろう。
こうして、セカンド・アルバムは幕を下ろす。
そしてぼくらは、月光グリーンの次なる音楽をまた、「待つ」のである。
そしてそれは、「君」とは違い、ちゃんとやって来た。しかも、メンバーチェンジという驚きの展開を持って。
だが、その話は、別稿に譲ろう。
The end