【放課後日本語クラスから⑰】私が見てきた「日本語指導員」という仕事
昨年度、公立高校の放課後補習クラスで、海外につながる高校生たちの日本語指導員をつとめていた、くすのきと申します。
上の表現、この投稿の書き手の立ち位置としては少々中途半端ですが、このどっちつかずの宙ぶらりんな感じが、いままさに私の立っている場所です。
今年度、私が日本語指導員の仕事を続けられるかは、5月を目前に控えたいまでも未定のままです。
昨年度まで、私たち指導員は年度ごとに高校と契約を交わしてきました。
それが今年度からは、教育委員会と高校との間に、海外につながる高校生の日本語指導を統括する運営団体が設置されることになりました。指導員の存在はまず運営団体が把握し、高校からの要請を受けて個々の指導員が高校に紹介され仕事をするというしくみです。
そんなわけで今現在の様子は私にはわかりませんが、それでも昨年度の振り返りだけはしっかりやっておきたいと思っています。なんといっても、私にはやり残して後悔していること、忸怩たる思いで唇をかみしめていることが、ごまんとあるのです。
そして(関わることができるのなら)今年度こそは、そのやり残しから学んだことをプラスに変える取り組みをしたいという気持ちでいっぱいなのです。
しかし課題は無限にあります。また一方で、高校生に限らず海外につながる児童生徒の現場で活動を重ね、課題解決に向けて発信や発表、行動を起こしていらっしゃる方々が数多くいらっしゃいます。
そこで、この投稿では私自身の体験から、
以上3点にしぼってまとめてみようと思います。ですので、以下の記録は日本語指導員全般、海外につながる高校生を受け入れている高校全般について言及したものではありません。ご留意いただければ幸いです。
1.特別の教育課程と必履修科目。どちらも大切?
●日本語指導は「陽の目を見る」のか
私たち指導員が学校から割り当てられている授業枠は、週2日の放課後各2時間です。これが意味することについて、まずはご説明したいと思います。
放課後は正規授業の枠外の時間ですから、たとえ授業に出席しても進級や卒業のために必要な単位として認められません。また、成績や評価にも反映されません。
つまり放課後補習クラスは正確には「授業」ではありません。それを生徒から見ると、成績の対象にならず出席日数にカウントされない放課後補習クラスは、自発的な参加に意味を見出しにくい側面をもっていると言えます。
しかし本来、日本語指導はサークル活動のような生徒の志向ややる気に合わせて任意に参加する性質のものではないはずです。
高校生一人ひとりの意志ややる気に任せるのではなく、日本語指導の重要性を公教育の枠組みのなかに正規のものとして組み込み、学びを保証すべきだという声は以前から強くありました。そして検討が重ねられた結果、文部科学省からは「学校教育法施行規則の一部」を改正し、2023年度から高校での日本語の授業が卒業単位として認められるようになるとの通知が出されました(先月3月31日付け)。以下からその内容がご確認いただけます。
小学校、中学校ではすでに制度として認められている「特別の教育課程」。そのしくみが、高校でもようやく制度化されたと受け止めてよいでしょう。
これを一歩前進ととらえ歓迎する声もあります。しかし、この通知のなかでひとつの成果として書かれていることと、いまの高校の教育現場の間には大きな乖離があり実現に向けてはこれから多くの工程が必要になるはず、という少々重い観測が、指導員の現場感覚にあるのも事実です。
●「必履修科目」の壁を乗り越えるには
要因は多様であり、すでにさまざまな観点から指摘がされていることと思いますが、私が直接に見聞きしてきた範囲のなかでひとつ挙げると、「特別の教育課程」実施の前に、「必履修科目」の壁がたちはだかっていることがあると思います。
公立高校では学習指導要領に沿って、在学中のいつ、どの科目を、何単位取得しなければならないかが決まっています。入学年である1年生では必履修科目の数が多く、文字通り「必履修」であるために他の学年に動かすことができません。
しかしたとえば、中学生になってから親の呼び寄せで来日したような高校生が、日本語の教科書で日本語による授業を受けるためには、日本語指導はまず高校入学の前後に行われなければ意味がありません。
この一見並立が難しそうな日本語指導と必履修科目を、どうしたら現在の授業時間のなかに収めることができるのか。物理的に限りのある時間と人員を考えたとき、この解決のための工数の多さが、現実の負担として学校現場にのしかかってくることは容易に想像できるのではないかと思います。
まずは1年生に限らず学校全体でカリキュラムの見直しと教員配置の見直しが行わなければならないでしょう。また「特別の教育課程」は、現状の日本語指導のような単なる補習ではなく、正規授業としてカウントするということですから、日本語指導員を含めて外部人材や外部団体とのより緊密な連携や管理など、学校教員や職員にはこれまでにない業務の組み立てや実行が求められることになります。
ところが、このような手のかかる改変が予想されながら、日本語指導が必要な海外につながる生徒たちは、学校にとって生徒の一部にすぎないのです。
「予算がない」「時間がない」「人員、人材がいない」と言い続けるのであれば、来年度から「特別の教育課程」をスタートさせることは困難ではないか――。海外につながる高校生たちと直接接するのが仕事の日本語指導員がそのような思いをいだくのにも理由があるのです。
2.未来を生きるための日本語指導を
●漢字指導に自信をもちたい……
次に、私自身の力が及ばなかった点について整理してみます。
私が支援している(していた?)海外につながる高校生には、親が先に来日して仕事をし、生活の基盤ができたここ数年で呼び寄せられた生徒が数多くいます。生徒たちは自分の意志で日本語や日本の文化を学びにやってきた留学生ではなく、また、日本での経験を持ち帰ったあとに、母国に自立した生活を築く基盤が待っているわけでもない若者たち、この先の人生を日本に定住して生きていくと考えられる若者たちです。
自分の国から国外に移住した場合、最初に必要となるのが、当然ながらその国の言語を学ぶことです。生徒たちは日本に来て、まずはひらがな、カタカナ、やがて漢字を、同時にサバイバルの日本語会話や学校の教科を学んでいきます。
しかし、ただでさえ学年を追うごとに難しくなる教科学習を、日本語力が伴わない生徒が学んでいくことは、かなり難しいのが現実です。
ことに来日数年の高校生であれば、日本では小学校低学年で習う漢字を知らずに高校の授業を受けることも珍しくありません。拙速で見当はずれな指導を受ければ、非漢字圏出身者が漢字に苦手意識をいだき、できれば避けたいと考えるのも無理のないことでしょう。
それでも、生徒たちがこの先日本で生きていくことを考えれば、生徒も教える側も漢字を避けて通ることはできません。
放課後クラスではJLPTや漢字検定の問題をはじめ、「現代文」や「現代社会」などの教科に出てくる漢字を取り上げ、生徒への指導を進めてきました。
ひとつの試みとして、ただ書いて覚えるだけの漢字学習をするのではなく、まず音を「聞く」ことから習得ができるのではないかと考え、取り組んでみた授業もあります。それについては、以下の投稿をご覧ください。
音として聞き、それを文字として読み(見て)、その意味を理解したうえで、自分でも声に出して読み、手を動かして書く。これら4技能をフルに連動させて学ぶ漢字学習の方法を、手探りするように考えたつもりですが、上記の試みは、方法論としてはとうてい未完成なものです。
またコロナ禍による時間数の削減のなかで、満足な検証もできないまま尻切れトンボで学年末を迎えてしまったことは、自分自身なんとも情けないことでもありました。
どのような漢字(熟語)を、どのような方法で指導することが、時間の限られた高校生に適しているのか。隙間時間のような放課後クラスだけではなく、まずは正規授業として、そして高校生自身の自学の方法も含めて探求されるべき課題だと感じています。(その指導指針については、いま研究者の方々によって準備が進められているということです)
●学校のなかの「多文化共生」の死角
昨年度、新たな気づきを得たこともありました。それはひとりの女子生徒が「日本人と話すの、こわい」と言ったことがきっかけでした。そのときのエピソードについては以下の投稿からご覧いただけます。
日本語指導が必要な高校生には、じつは日本語の「会話」を学習する機会がありません。「先生や同級生は日本人なのだから、日本語は自然に話せるようになるのでは?」「日本語で日本語の教科書を勉強するのだから、日本語にはいつも接しているわけでしょう?」
多くの方はそのように感じ、「会話」ができないという事実を不思議に、あるいは生徒たちの不勉強や、教師側の怠慢のように思われるかもしれません。
しかし、情報源はテレビや雑誌ではなく、スマホの中のYoutubeやTikTokであり、家では家族と母語で話し、学校に来れば同級生たちと英語や母語で話すことができる生徒たちには、日本語で会話をする必要性は意外なほど小さいのが現実です。
一方、高校にいるうちは日本人との会話を避けることができても、生徒たちは3年後には卒業して社会に出ていきます。いまのままでは、会話力の拙さはそのときに大きく表に現れてくるでしょう。
現場にいる教員や私たち指導員が、この現実を見ないふりをしてよいものでしょうか。
上述の女子生徒の言葉に触れて以来、海外につながる高校生の会話学習の必要性について考えるようになり、いま私はふたつの異なる側面から課題解決への道を開くことができないかを考えています。
ひとつは、学校のなかで日本人生徒との交流の機会をなかば強制的に作り出すこと。もうひとつは、学校とは別の交流の場へ生徒の参加を促すことです。
このふたつに共通するポイントは、同年代や少し上のメンターの役割が期待できる世代との接触を作り出すことです。
生徒たちは私たちおとなとではなく、同世代の仲間たちとともに、これからの人生を生きていきます。
学校で一方的に日本語を「教わる」だけではなく、自ら仲間と「もっと話したい」と強く思う気持ちが、会話力も含め日本語力を上げる原動力になるのではないでしょうか。そして学校のなかでは、海外につながる高校生の日本語指導を考えるとき、じつはこの視点が死角のように欠けているのではないかと感じるのです。
3.学校はユートピアか
●「洗礼」を跳ね返せ
さて、ここまでお読みいただいたみなさんのなかには、「日本語指導の役割は、外部人材の日本語指導員ではなく、本来、学校の仕事ではないのか?」「日本語指導について指導員が口を出しすぎでは?」といった解せない思いをいだいた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
まさにそのとおりで、在籍する海外につながる生徒たちの人数や出身国、滞在年数や日本語力に合わせた指導の枠組みを計画し、実行するのは学校の役割です。指導員の仕事は、学校だけでは担いきれない部分を補完し補強することであると言えます。
それではなぜ、私たち指導員がこのような大層なことを言い立てるのでしょうか。それについての考え方は多種多様にあると思いますが、ここでは私が感じている、あるひとつのことに触れてみたいと思います。
昨年度、指導員の仕事が始まる際に、私たちは教員の方の「外国人高校生が日本語や勉強ができないのは自己責任だ」という言葉を耳にしたことがありました。また、「きちんと出席しようとしない生徒にまで責任をもとうとは思わない」と聞いたこともあります。
これらの言葉は当然のことながら指導員の心に大きな影響を与えます。それでは、感情的な反発は置いておくとして、これらの言葉が意味していることとは何なのでしょうか。
それは学校も、在留外国人についてこれまで一度も考えたこともない人々が集まっている「一般社会」と同じだということです。私たち指導員は、学校のなかでそんな一般社会の洗礼をたびたび受けながら活動することになります。
一般社会には一般社会の規範があり、それに則って動き、そこで生きる人たちを守っています。その規範に守られた社会は外部の人間の言うことに耳を貸しませんし、近寄ろうとすると、規範を盾に部外者を排除しようとします。
学校もその例にもれません。そもそもが異質な他者である海外につながる高校生を含んだ学校という構造をもってしまったために、従来の規範を適用しようとするとどうしても歪みが生じてしまう。それが現実の姿なのだと思います。
単一の文化を前提とした従来の規範を改変して、他者と共生する新たな規範を作るのか。それとも、あくまで従来の規範のなかで他者を適応させようとするのか。
最初に挙げた言葉は、まさに後者の例であると言えるでしょう。
もちろん、はじめはそのような言葉を無自覚に口にする人でも、何年か経つうちには生徒たちと温かい絆を結ぶこともあります。決して未来が変わらないわけではないはずです。
いま、学校にとっての日本語指導員は、正規の職員として認めるべき存在ではなく、外部からたまに顔を出す時間給の支援者に過ぎません。
それでも私は、指導員は一般社会の堅固なドアを叩き続け、海外につながる生徒たちをそのなかに迎え入れてもらう先導役、あるいはしんがりを務める役割ではないかと思っています。
自分に何が足りないのか、そしてこの世界がどのような成り立ちなのかを、目の前の生徒たちから教わることができるこの仕事を、今年度も続けられることを願っています。
とても長い投稿になってしまいました。
長文をお読みいただき、大変ありがとうございました。