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【放課後日本語クラスから⑭】砂漠に一滴の水を

こんにちは。公立高校の放課後補習クラスで日本語指導員をしている、くすのきと申します。

まん防重点措置は解除されていませんが、学校は時短時程による対面授業に移行し放課後クラスも再開されることになりました。

このコロナ禍、昨年9月以降、予定の日数の約半分が消化されないまま、すでに3学期も2月に入ってしまいました。

生徒たちの様子を観察し、できるだけきめ細かく授業プランを軌道修をしながら進めてきたつもりでも、やはりどんどん削減されていく時程のなかで計画を進めていくのは、とても「苦しいなあ」というのが実感です。

1年生が終わるまでにあとわずか4回。
いま私は、残された時間を意識しながら授業について考えています。

言葉を交わすための媒体づくり

私が関わる高校では2年生になると指導員による日本語クラスはなくなり、希望する生徒は、正規授業のなかで設定された「日本語」という科目を学ぶことになります。私が生徒と関われるのは、正真正銘あと4回というわけです。

そこで初めに思い描いていた計画を大幅に修正し、残り4回の授業の中で実行するプランをおもに以下の2点に絞ることにしました。

①日本語についてはJLPT N4問題の結果から一人ひとりに足りないことが何かを知り、それを埋めるための勉強方法についていっしょに考えること。

②高校の先輩の体験談を読解教材として用い、自分の現在と将来についての意識を高めてもらうこと。

N4の練習問題に力を入れてきたのは、私が担当するクラスは中学半ばに来日した生徒が中心なために基本的な語彙知識や文型への理解に不安があり、まず日本語の土台を少しでもしっかりさせたいとの思いがあったからでした。

10月から少しずつ練習を積み重ね、仕上げとして1月の終わりに「公式問題集」を解いてもらいました。結果はもちろん様々でしたが、結果だけを伝えて「よくできたね」「もう少しがんばろう!」では意味がありません。

そこで自分にとって何が強みなのか、弱みなのかを理解してもらえるように「評価表」を作り、結果を100点に換算したときの点数で表しました。そしてそれをもとに、まだよく理解できていない部分を埋めるためにはどのような勉強をしてほしいかといった提案を箇条書きの文章で書きました。

そしてこの「評価表」をいっしょに見ながら、生徒一人ひとりと話をしていきました。

「話すのがこわい」に寄り添うには…

何を言っても冗談ではぐらかし、話を早く終わらせようとする生徒。
うなずいてはいるけれど、黙ったままなので心に届いているのかおぼつかないような気持ちにさせられる生徒。
生徒は当然ながらそれぞれの思いや感情をもち、私が一生懸命であるかないかとは関係なく、一人ひとりが懸命に生きています。

そうはわかってはいても、あまりにのれんに腕押しのようなやり取りが続くと、自分のやっていることはまったくの自己満足ではと感じさせられるような、砂を噛むような気持ちになることもあります。

それでもこの「評価表」を間にして話をした際に、私にとって新たな気づきを与えてくれた出来事もいくつかありました。

そのひとつは漢字圏のAさんと話していたときのことです。
Aさんは両親とも、学校では友だちとも母語で話すことができる環境のために日本語で会話をする機会や必要がほとんどありません。

そしてJLPTの問題では、文字や語彙はともかく文法でどうしてもつまずいてしまいます。適当に答えを選んでどんどん問題を進める生徒もいますが、Aさんは一生懸命考えて時間切れになり、やり残しが出てしまうような生徒でもあります。

文法を積み上げながら学習すれば素直に吸収して日本語力を伸ばすこともできるのでしょうが、現在のAさんにその方法が適切だとも思えません。

そこで私は「もう少し日本語で話す機会や場所があるといいですね」といった話をしてみました。問題集をやるだけではなく、生きた場面でやりとりをし、自分が伝えたいことやわからないことを聞くためのトレーニングをするなかで、日本語の文法や文型を身に付けていくことができるのではないかと考えたからです。

じつは、学校で先生や友だちと話すだけならサバイバルの日本語で事が足りてしまいます。しかし、近い将来、社会に出ていくのがわかっている生徒たちには日本語でコミュニケーションするための練習が必要ではないでしょうか。JSL高校生は第二言語として日本語を学ぶための視点から取り残されているというのが、私の現在の認識です。

さて、Aさんはいつも通り私の話をおっとりとほほえみながら聞いてくれていましたが、やがて珍しくはっきりとした口調で口にしたのは「日本語、話すのこわい」という言葉でした。

少し驚いてAさんの顔を見ると、いつもはやわらかく笑っているAさんの目が真剣な表情になっています。

しかし、これはなんと率直で正直な言葉を突き付けられたことでしょう。

私たちが外国で学校に通ったり生活することの困難さを思えば、この言葉が当然だということは容易に想像がつくはずです。海外ルーツの児童生徒たちは、日本人と日本語で話すのがこわいのです。

自分が、生徒たちが日本語をよりたくさん身に付けることについ躍起になっていなかったか。Aさんへの答えとして即席の解決法など思いつくはずもなく、この言葉への返答は、私にとってちょっと重い宿題となりました。

時機がくることの意味

もうひとつのエピソードは非漢字圏のBさんと話していたときのことです。

Bさんは「話す」「聞く」のスキルはそこそこに身に付いており、文を書くことについてセンスのよさを感じさせる生徒です。

しかし、よくあることですが漢字への忌避感が強く、問題を見たなり「先生、無理!」と初めから投げ出してしまうようなところがあります。

しかし日本で生きていく限り、漢字を避けて通ることはできません。せっかくの強みを生かしながら、もう少し地道に漢字学習に取り組むことができれば。それが私の正直な思いでもありました。

そこで前述のAさんとは反対に「問題集で練習してみては」と提案してみました。Bさんは「うーん」という思案顔をしています。簡単に問題集と言ってもお金がかかりますし、それがネックになってあきらめてしまっては元も子もありません。Bさんの表情を見て、私は問題集ではなくアプリをすすめてみることにしました。

T:「アプリもたくさんありますよ」(とスマホで検索してみる)
S:「そうですかあ?(と検索を始める)たくさんありますねー」
T:「そう。Bさんに合っているものがあると思うから、選んでみたら?」
S:「じゃあダウンロードしてみる」(とアプリを選び始める)

一見、なんでもない会話のように見えますが、じつは私はこのときのBさんの反応にかなり驚いていました。

これまで(ある意味当然ながら)学習用のアプリについてはずいぶんと紹介してきました。漢字学習とICT教材は相性がいいと思われましたし、わざわざ机に向かわなくても、学校の行き帰りの時間に手軽に利用できる、忙しい高校生にはぴったりなツールだと考えられたからです。

しかしこれまでは紹介したその場で興味を示すことはあっても、だれも「検索」してダウンロードするという行動にまで至ることはありませんでした。

今回Bさんがほんの少しでも行動を前に進めてくれたのは、自分にとって明らかに弱い部分が「評価表」によって見える化されたこと、そして何よりその時機がきたことが大きいのではないかと感じます。

砂漠の下の豊かな土壌を信じたい

生徒たちが私の働きかけに対して、期待通りの手ごろな答えを返してくれるようなことはまずありません。ときにそれは砂漠に水を撒くような味気なくむだな作業に感じられることさえあります。

でも、一滴の水があるとき芽吹きを促すこともあるのではないでしょうか。

生徒たちはこの異国の地で、こわい思いをしながらも、自分と向き合って成長していこうとしているのです。その力がこの日本で生かされる日がくることを信じ、少しずつでも水を注ぎ続けたいと思います。

先述の「②高校の先輩の体験談を読解教材とした授業」については、実践後に改めて報告を記す予定です。

長文のレポートをお読みいただき、ありがとうございました。

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