【内省】言葉は「選ぶ」のか「運ぶ」のか、から始めた自己解体
前回の記事とちょっとだけ関連する、ただの内省記録です。「すべての文章は内省であり自己表現だ」という話は置いといて、読んで面白いものではないと思います。
古橋は讃えるよ。
◆ 「言葉“選”び」と「言葉“運”び」
「言葉選び」という文字列を見て、猛烈に気になったんですよ。
私、「言葉“運”び」って言ってるな……? と。
Twlilogで確認したところ、2009年5月から使用している自身のアカウントでのツイートの内、「言葉“運”び」(以下「運」)の検索結果は16件、対して「言葉“選”び」(以下「選」)は1件で、明確に差がありました。
世の中はどうなんだ、とgoogleで両語を検索。「運」は約8,030,000件、「選」は約39,400,000件で、私とは逆の方向に文字通り桁違いの差。
(※どちらも2022年11月17日21:00頃調べ)
ヒット上位10件の記事もざっと見たところ、「選」は『ことば選び辞典』など書籍名に使われ、辞書の項目にもなっているようです。
となると私が使っていた「言葉“運”び」は誤用の気配が……ウワーろくに調べずノリと勢いだけで文章を書いてるから当然だけど、だからこそ何年も抜き身の無知を晒していたのが恥ずかしいバカバカバカー! と半月ほど懊悩していましたが、読書好きと思しき方が教養あふれる文章を綴られているブログ記事でも「言葉運び」という語が出てきました。
国語辞典編纂者の飯間浩明さんもこう仰ってます。
ので、ジタバタするのはこの辺でやめて。なぜ私は「言葉“運”び」という語を使っていたのか。「言葉“選”び」ではだめだったのか。他の選択肢はなかったのか。この辺りを考えたいと思います。
◆ なぜ「言葉“運”び」か――私の場合
理由として思いついたのはこの辺り。
・「言葉選び」を見間違えて「言葉運び」と覚えていた
両語の使用時期が重なっているので可能性は低そうです。
・周辺に「言葉運び」という語を使う人がいた
ありそうだけど心当たりがない。
一番腑に落とせる理由づけは、「言葉運び」の最古の用例が鍵のようです。
つまり始めに所作――身体があって、それから言葉に移行したと。
恐らくは「“足”運び」「“手”運び」を先行イメージとして、「“言葉”運び」という表現に行き着いたのでしょう。以降はこの時に味わった感動と類するもの……要は理想の文章表現を想起した時に「言葉運び」という言葉を使っているようです。
ちなみに16件すべて、他者の文章表現に対して使用していました。
◆ 「言葉“選”び」を使わない理由、使った理由
「言葉“選”び」という言葉をほとんど使っていないのは納得がいくものがあります。
私は基本的に何かを書く時は無心で手の動くままに任せているので、言葉を意識的に「選ぶ」感覚はありません。そして他者の言葉に関しては、選んだものかどうか分かりようがないし、どうでも良い。
「言葉“選”び」という言葉を「選ぶ」意義がまったくないんですね。むしろ1件あったことに驚きです。一応見ておきます。
これはひどい。お目汚しすみません。
この時はたしか、画面に打ち込まれた言葉を見て変更しようか一瞬考えましたが、「まぁ自分に向けた言葉だしいいか」と「判断」してツイートボタンを押した記憶があります。そのため例外的に「言葉選び」と打てたのでしょう。あるいは、こういう言葉をわざわざ「選ぶ」意思を持った人間だという自虐を表明したい意図もあったような。
しかしこのツイート、「いつにも増して」と書いている辺り「いつも言葉選びをしている」という意識はあるようですね。ここまでの記述でも、「言葉選び」をしていることが明らかにされたような。
でもその「言葉選び」は雑なものだと自認しているようです。そうですね。ろくに考えず書き殴ってるだけだし、選ぶと言えるような大層なことはしてません。たとえしていたとしても、ろくなもんじゃないし。
敢えて言うなら「並べてる」だけでは。試しに「羅列」でTwilog検索したらそれっぽい結果が出てきました。自他両方の言葉に、否定的な意味合いで使ってます。わかる。特に私の文章は「運び」の技術も「選び」の意思もない、雑に並べただけのものですよ。
◆ 他己評価からの再考
なんですけど古橋が言った以上私は劣悪でない方向でも言葉を「選ぶ」意思を持っていると認めなければなりません。突然の信仰重すぎ当事者ムーブ。問題ありません、「兄さんが言うなら間違いない」と弟君も仰せでしたので。いやあれも信仰重すぎブラコンムーブか。まあいい。
Twitter上で私の文章表現をお褒めいただいたことがあったのも思い出しました。読み返してみれば、私は私の理想とするものを書けている……つまり、「言葉運び」ができていると示されていました。うそ……だろ…………まじ……かよ……………………。
ブログ記事はだいたい1時間くらいでパーッと書いちゃうんですけど、今回は1週間以上かかりました。他者からの好意的な評価を飲み込むのに時間を要したのです。原因は自己評価の低さと自惚れることへの忌避感、客観視力の弱さ、他者からのネガティブ評価のこびりつき辺りと思われるんですが。
自己評価より信頼できる筋からの評価の方が100000000000000倍価値があるし。自己評価が低いので自惚れようもないし。客観視できないなら他者からの評価は大いに参考にすべきだし。そもそも脳はネガティブな情報の方が定着しやすいんだからポジティブな評価を意識的に記憶しないとバランスが悪いし。何よりせっかくの好意を無碍にするのは望まぬところなので、さっさと受け入れるべき。
と、めんどくさい自意識に大鉈を振るう、いや刀好きとしては大段平をぶん回すと言ったほうが良いか。(脳内イメージ:本作長義) とにかく積極的に意識改革に臨んだものの抵抗感が残り、その正体を見極めようとしたところ。
褒められるの照れくさいじゃん?(テレ)
というシンプルな自分を見つけました。うける。
けどまぁ、それなら自分の人格や能力、経験を貶める必要もなければ他者を拒絶する動機にもなりづらい。いま目指す方向性とも合致するし、良いんじゃないでしょうか。
◆ まとめ――“選”びと“運”びを目指して
「言葉選び」という言葉を考えて約3週間。実感としては大変でしたがそれ以上にとても楽しく有意義なものでした。
一番の収穫は、私は言葉というものが大好きなのだと気づけたことでしょうか。結局のところ、好きで好きで仕方なくてどんなに頑張ったところで及ばないというクソデカ感情に端を発して、自身の言語表現を拙いと嘆いているだけな気がしてきました。
けどどうも、人に褒めてもらえるだけの言葉を自分は生み出せているのだと、理想とする「言葉運び」を「選べる」人を目指せる素地くらいはあるのだと、少しくらいは、ええ、照れくさくならない程度には、自分を信頼したい。
そうして言葉を大切にしながら、褒めてくれた人への感謝にも繋げられるといいなぁ。そんなふうに感じています。
私が本当に言葉を「選ぶ」意思と「運ぶ」技術を持っていると、胸を晴れる日はたぶん来ないでしょう。きっとまた自己卑下にはまる。確信すらしています。
そんな時に、この記事が顔を上げるきっかけになりますように。