差別してない人だけが石を投げられる。
誤解を恐れずに申しますと、ぼくは差別をします。
区別もしますが、差別もします。
ただ、差別をしていても、口にだしたり態度に表すことは稀です。
もちろん、表に出ていなければ差別でないという指摘もありますが…
少なくともぼくの心の中から差別を消す事は難しいです。
▼森喜朗元総理の発言
今、世の中を騒がしている森喜朗元総理の会見での話に端を発し、連日、テレビのワイドショーやネットでは賛否両論の議論が交わされています。
発言内容は色々なところでまとめられていると思いますのでここでは詳細は記しませんが、「女性が多いと(会議などは)時間がかかる」と言った旨の発言だったようです。
これが女性蔑視発言だ、という事で問題になっていると認識しています。
もちろん、この発言は非常に不用意であって女性を蔑視している、差別している発言だとぼくも思います。
偏見があり―――おそらく、森元総理が育ってきた環境では当たり前の感覚なのかもしれませんが―――今の多くの人の認識からはかけ離れた発言であったろうと感じています。
▼会議の長さは・・・
ぼくはこの発言を聞いて、何も女性に限ったことではないと感じました。
会議が長いかどうかというのは男女関係なく、会議の目的や目標が曖昧だったり、人数が多かったり、決められない雰囲気があったり、参加者の意思統一が図られてなければ…結論が出るまで時間がかかります。
どの職業でも同じだと考えますが、一緒に働いている時間によっても会議の長さは変わってくると思います。
一緒に働いている時間が長ければ長いほど、会議の進め方、結論の出し方が洗練されてくるものではないでしょうか。
しかしながら、一緒に居る時間が少ない、会議だけしか顔を合わせない、目的がそれぞれ違うなどの事業が重なればそりゃあ長くなってくるのだと考えています。
森元総理の発言の真意はどこにあるのかわかりませんが・・・
ぼくは男女関係なく、会議が長いのはそこに参加している総ての人の責任だと考えています。
森元総理の発言から、ぼくが察するに・・・「五輪開催」という結論ありきだからこそ「遅い」という発言が出てきたのではないかとも思っています。
▼森元総理への攻撃
この発言があり、翌日に行われた釈明会見の様子もあり、今やワイドショーは元より国会の中までこの話題が中心になっています。
どこかのスポーツ選手も「無知な発言」と言い切ったと言われています。
ぼくはこの騒ぎを見て、老人イジメに近いな、と感じています。
もちろん、森元総理の発言が良いとは感じておりません。
それぞれが、「森は間違っている」「女性蔑視だ」という発言は自由です。
批判や意見表明は個人が行う分には誰にも止められるものではありません。
しかしながら、いつもにも増して加減を知らないというか、
大物政治家は巨悪の象徴なのか、攻撃をして良い対象だと思っているのかわかりませんが…
ここ最近のワイドショーや一部の国会議員の行動を見ると『イジメ』以外何物でもないのではないか、と感じてしまいます。
もちろん、森喜朗元総理の発言は撤回してもらい、考えはできるだけ改めてもらって、五輪の開催是非も含めて今一度、取り組んで頂きたいとぼくは考えています。
しかしながら・・・世の中の、特に白い服を来た国会議員のセンセイ方はきっと差別をする、という考えがないのか、活発に攻撃をされています。
▼石を投げられるのは、
キリスト教の新約聖書、ヨハネによる福音書第にこういう言葉があります。
これは姦通を犯した女についてユダヤ教の律法学者たちとイエスが対立した時の話です。
律法の中では姦通した者は石打にされる決まりだ、と律法学者たちはイエスに言います。
イエスはそれを聞いて、
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」
と言ったのです。
この言葉を聞いてその対立を見ていた周りの人々は、一人、また一人とその場を去ったと言います。石を女に投げることなく。
ぼくは別に敬虔なキリスト教徒ではありませんし、この話を森喜朗元総理の発言に対する騒動を一緒にしようなどとは思っていません。
思っていませんが・・・森喜朗元総理への攻撃している国会議員は差別や蔑視する気持ちを抱かない人々なのかと感じてはいます。
もちろん、さきほども書きましたが、批判や森元総理の発言は訂正を求めるのは自由です。
しかし、人の心までも変えることはそう簡単ではないと感じますし、ましてや「思う」自由を奪うことは誰にもできないとぼくは考えています。
そう考えますと、昨今の国会議員の森元総理に対する攻撃や、ワイドショーなどはこの「思う」自由を奪うような暴挙に見えて仕方ありません。
森喜朗元総理が悪者であり、行動すべてが悪い、人格が悪い、悪は斬るしかないというような行き過ぎた感じを受けています。
これはイジメの構造に近いような気もしています。
▼ぼくは石は投げられない。
冒頭にも書きましたように、ぼくは差別をします。
「あいつは嫌なヤツだ。面白くないし、二度と一緒に仕事しねえ」
とか
「あいつの考え方は気に食わねえ、二度と見たくねえ」
とか
「年寄りのくせに。なんでわからないんだ」
とか
「むかつく顔している」
とかは頻繁に感じたりします。
しかし、それを表に出すことはあまりありません。
また、家族や仲間にもこうした思いは感じる事はまま、あります。
しかし、家族や仲間・友人を『その発言をしたから』とか『その行動をとったから』と単純に知らんぷりしたり、攻撃したりはしません。
議論はする時はありますが、ぼくの家族や仲間は少なくとも、好きも嫌いも併せ持って共に居るものだと考えているからです。
すべてを無条件に認める事もなければ、無条件にすべてを否定する事もありません。
良いも悪いも併せての家族であり、仲間だと考えています。
人間は完璧ではありませんから、ぼくにとって、合わないこともあれば、合うこともあります。
その両方があってこそ、一緒に居られる、一緒に出来ると考えているからです。
家族や仲間以外でも・・・差別や蔑視の気持ちを外には出すことは少ないです。
何故ならば、その差別や蔑視の気持ちを相手に伝えても何にもならないからです。
無論、差別や蔑視というのはぼく自身の主観によるところが大きいのです。その人や人々の評価がぼくの気持ち一つで決まることはありません。
ただ、ぼくはこれから生きている間は・・・こうした差別や蔑視の気持ちを消し去ることはできないと思っています。
▼言葉狩りしても。
話が少し逸れましたが、この森元総理の発言に端を発したこの騒ぎですが・・・
森喜朗元総理が東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長を辞任しても、東京オリンピック・パラリンピックが行われても行われなくても・・・きっと差別や蔑視というのは世の中に残ってしまうものではないかと考えています。
これを言っちゃだめだ、これは許せない、と言う意見表明や意思の表明は非常に大切ですし、していくべきだと考えています。
しかし、その言葉だけを禁止したとしても・・・かえって人々の心に差別や蔑視する気持ちは残っていってしまうのではないでしょうか。
ぼくは言葉は心が発するものだと思っています。
人間の心は誰でも不安定でもあります。ですから間違った事も発する時もあれば、人に受け入れらる言葉を発する時もあります。
少しでも差別や蔑視のない世界を目指したいからこそ、発した人も受けた人も、育ってきた環境、お互いの認識を交換し、分かり合う事が必要なのではないか、と考えています。
森元総理の発言を批難するTwitterの書き込みで・・・「この老害が」というのもありました。
これもぼくからしてみれば十分に蔑視・差別発言だなと感じます。
▼人の心を変える事ができるのは
人は感じる事はそれぞれ違います。
だからこそ、完璧にはならず、まったく同一にはなり得ません。
一つの思想や考え方にみんなが合わさればなんて楽なのだろうとは思います。面倒くさくなくていいなとも思います。
しかしそうなれば、きっと、生み出す力も少なくなり、とてもつまらない世界になってしまい・・・誰も考えることをしなくなる世界になってしまうのではないでしょうか。
人の気持ちは神さまとか仏さまのような天の存在なら変える事はできるかもしれません。
しかし、ぼくたちの発する言葉で人の心の変化のきっかけになることはあっても、完全に変えることは難しいと思っています。
他人の心を自由にできる人間はいないと考えています。
だからこそ、今回の森元総理の発言に端を発した騒動がどこか違う方向に行っているような気がしてなりません。
やっぱりぼくには森元総理に石を投げる事はできません。
今の騒動はぼくの目には老人イジメに見える時がありますし、ぼくの心の中にはやっぱり差別する心、蔑視する心があるからです。
そうは言っても、できるだけそうした心をおさえていけるようにぼく自身努力していきます。