【世界史】あまりにも弱すぎた大帝国、セレウコス朝シリアについて解説
アレクサンドロス大王。その名前は高校で世界史を選択していなくても知っている人が多い。彼が世界史に与えた影響はあまりにも絶大だし、人類史上最も軍の指揮に優れた武将は間違いなく彼だ。あのハンニバルやカエサル、ナポレオンが尊敬していた程だ。如何に天才かわかるだろう。
ところが彼は32歳の若さで亡くなってしまった。しかも「最も強き者が帝国を継げ」という、凄くよくわからない遺言を残してしまった。そのせいで彼が築き上げた大帝国では、「我こそは大王の後継者(ディアドコイ)!」だと名乗る彼の配下達によって熾烈な後継者戦争(ディアドコイ戦争)が繰り広げられることになる。
最終的に彼の帝国は
の3つに分割された。この三国は合わせてヘレニズム三国と呼ばれる。
前置きが随分長くなってしまったが、今回はこの三国の中でも最大の領土を誇った大帝国、セレウコス朝シリアについて解説しようと思う。
【セレウコス1世の栄光】
セレウコス朝の創始者はセレウコス1世だ。だが彼は初めから有力なディアドコイだったわけではない。大王死後に最初の領土分割会議として開かれたバビロン会議では意外にもセレウコスは領土を獲得できなかった。代わりに騎兵隊の指揮権を掌握したが、既に各地に独立勢力を築き上げていた他のディアドコイに比べると遅れをとっている感は否めない。
その後ペルディッカスという、アレクサンドロス大王の息子アレクサンドロス4世(当時はまだ生まれてはいなかったが。)の摂政を務めディアドコイに最も近かった人物が帝国の統一を本格的に進め、エジプトに本拠地を構えていたプトレマイオス(名前の通りプトレマイオス朝エジプトの創始者。)を討伐しに行くが、その途中でナイル川を渡ろうとして失敗。戦う前から大きな損害を出してしまい、配下としてペルディッカスに従っていたセレウコスは失望。そしてセレウコスとその他の将軍はナイル渡河に失敗したペルディッカスを暗殺。セレウコスはその後ペルディッカス軍のエジプトからの撤退を指揮すると後にシリアで開かれたトリパラデイソス会議でバビロニアを手に入れた。ここに来てようやく歴史の表舞台に躍り出たのだ。
しかしその後色々あってバビロニアを喪失してしまうが、紀元前312〜311年にバビロニアを再び奪還。バビロニアの支配権を確立し、ここでセレウコス朝を創始する。
彼はまず東に転じ現在のパキスタンやアフガニスタン、そしてインドへ侵攻。しかし少し前に成立していたインドのマウリヤ朝に阻まれてうまくいかなかった。結局戦象500頭と引き換えにインド北西地域をマウリヤ朝に引き渡すことになった。
しかしセレウコスはここで諦めなかった。西方に転じ今度は大王の父フィリッポス2世の時代からマケドニアを支えていた老練なアンティゴノス1世(名前からアンティゴノス朝マケドニアの創始者だと勘違いされがちだが、実際はアンティゴノス朝の創始者は彼の孫である。)を他の武将と共に前301年イプソスの戦いで破り、戦死に追い込んだ。この時マウリヤ朝から獲得した戦象が大きな威力を発揮し、ヨーロッパに戦象が用いられる最初のきっかけとなった。そしてセレウコスはその後もアナトリア方面に軍を進め、大王の帝国のアジア部分のほぼ全域がセレウコス朝の支配下に置かれた。
【混乱と東部の独立】
セレウコスは更にマケドニアの支配を目指し、バルカン半島へと進撃を開始。しかしここでセレウコスの元に亡命していたプトレマイオス1世の息子、プトレマイオス•ケラウノスに暗殺されてしまう。
彼の死後は彼の息子であり西部でセレウコスが戦っている間東部地域の支配を任されていたアンティオコス1世が後を継ぐも、さっそく危機が訪れる。
まず帝国のお膝元シリア(当初はバビロニア地方に本拠地を構えたセレウコスだったが、西部で戦いを続けるうちにシリアのアンティオキアという都を二つ目の拠点としていた)で反乱が起こり、加えてアナトリアでケルト人の侵攻に直面する。更にプトレマイオス朝との戦争も重なり、アンティオコス1世は父同様西部のことで手一杯になってしまう。
こうした混乱の中でセレウコス朝の支配が弱まった東部では独立の動きが広がる。
まずバクトリア地方の総督だったディオドトス1世が独立。中央アジアのバクトリア地方のバクトラという都市を中心にグレコ•バクトリア王国を建設する。このバクトリア王国は中央アジアにありながらギリシア系の国家というかなり意外な性質を持つ国だ。アレクサンドロス大王の東方遠征により生まれたヘレニズムを象徴する国家であるし、現在の領土や民族に囚われない、日本史にはあまり見られない世界史の面白さが詰まった国だと個人的に思う。
更にその西のパルティアでは現地の総督であったアンドラゴラスが独立を宣言。尤もアンドラゴラスはアルサケス1世率いるバルニ氏族に敗れてしまい、彼の死後はアルサケス1世が中心になってパルティア王国、又の名をアルサケス朝が誕生する。
この2カ国の成立により東部におけるセレウコス朝の支配は大きく縮小した。加えてアナトリアでもアッタロス朝ペルガモン王国を中心とした諸勢力の離反の動きが続き、じわじわと帝国は弱体化していった。
【2度目の栄光】
そんな中紀元前223年、アンティオコス3世が即位する。彼は最初にプトレマイオス朝に戦争を仕掛け、ここでは敗北するも前212年に開始した東方遠征では見事な成功を収めた。まずパルティアへと遠征し、パルティア王アルサケス2世を破るとパルティア王国を服属させる。
次にグレコ•バクトリア王国へと遠征を開始し、バクトリア王エウテュデモス1世を2年間の首都包囲戦の末服属させた。
これにより東部領土をほぼ回復したアンティオコス3世は大王を名乗り、アレクサンドロス大王の再来とまで呼ばれるようになる。
その後彼は前200年に再びプトレマイオス朝との戦争を開始し大勝利。パレスチナ方面への進出に成功し更にエルサレムのユダヤ人たちも同年に征服した。
【急転落と滅亡】
アンティオコス3世は更なる拡大を目論んだ。支配が後退していたアナトリアの大半を再び征服し、遂にはヨーロッパへと入りトラキア地方にまで征服した。前194年頃にセレウコス朝は全盛期を迎えたのである。
ところが同時期に地中海に覇を唱えつつあった国家があった。それは共和政ローマだ。トラキアにまで進出したセレウコス朝に危機感を感じたギリシアの諸都市はローマに救援を要請した。カルタゴを筆頭とした強敵を次々と撃破し地中海の覇者になろうとしていたローマと、アレクサンドロス帝国の後継国家にして、まさに今全盛期を迎えていたセレウコス朝の激突だ。しかも第二次ポエニ戦争後、カルタゴ本国を追放されたあのハンニバルもセレウコス朝で暮らしており(カルタゴは元々レバノンのティルスという都市の人たちが作った国家で、当時ティルスはセレウコス朝が支配していた。そのためカルタゴを追われたハンニバルは母市ティルスのあるセレウコス朝に来ていたのだ。)アンティオコス3世にローマとの戦いを呼びかけていた。どちらが勝ってもおかしくない戦いだった。
だが結果はローマの大勝に終わった。アパメイアの和約を結びローマと講和したセレウコス朝は、すぐに諸地域の反乱に直面した。その理由はアンティオコス3世の統治方針にある。彼は征服したバクトリアやパルティアの王国を廃せず、セレウコス朝の支配を認めさせた上でそのまま服属させる比較的甘い統治方針を取っていたが、これは現地の勢力を温存させることとなり今回のローマに対する敗北で再び独立運動が盛り上がってしまったのだ。
こうして彼の征服した領土は次々と失われていった。バクトリアやパルティアはセレウコス朝がローマに敗北した直後に独立し、紀元前167年にはパレスチナのユダヤ人勢力が独立戦争(マカバイ戦争)を開始し、長い戦争を経て前142年にはユダヤ人の王国ハスモン朝が成立することとなる。
またパルティアによるイラン高原への進出も深刻化し、前141年にはアンティオキアと並ぶセレウコス朝の首都、セレウキアが、前140年にはスサが陥落し、少し前に陥落していたメディア地方と合わせてメソポタミアはパルティアの支配下になった。
勿論セレウコス朝も何もしなかったわけではない。 しかし反撃に出たデメトリオス2世ニカトルは敗れて捕縛され、続いてパルティアと戦ったアンティオコス7世シデテスはメソポタミアとメディアをパルティアから奪回し、パルティア本国にまで攻め入ったがそこで現地人の反乱に直面し戦死してしまった。
こうしてセレウコス朝は完全にメソポタミアから撤退し、首都アンティオキアがあるシリアとその周辺地域のみを支配する小国家にまで落ちぶれてしまったのだ。
【滅亡】
紀元前1世紀に入ると、セレウコス朝はアルメニア王国の支配下に入る。しかしアルメニア王国はローマの仇敵ポントス王国と同盟を結んでいたため、ローマはアルメニアを攻撃してアルメニアを降伏させた。その後はローマのお情けでなんとか存続しているような状況が続くも、紀元前64年にシリアに進駐したローマの司令官、かの有名なポンペイウスはセレウコス朝を滅亡させシリア属州とし、セレウコス朝の約250年に及ぶ歴史はここに終了した。
【まとめ】
アレクサンドロス大王の帝国の殆どを引き継いでおきながら今一つ活躍できなかったセレウコス朝シリア。その後台頭したローマとパルティア(ペルシア)は、かつて諸王国が覇を唱えた古代オリエントを二分しお互いに攻勢を繰り返すこととなる。それは7世紀初頭のイスラーム勢力の勃興により終焉するまで、実に700年近く続くこととなる。
なお、シリアの繁栄は終わらず、アンティオキアはローマ帝国屈指の巨大都市として発展し続けた。セレウコス朝は滅亡したが、シリアの豊かさは守られたのである。
最後まで私の駄文を読んでいただき、ありがとうございました。この記事で載せた画像は「世界史の窓」というサイトと「Kamasick」というYouTubeチャンネルより引用しました。どちらも歴史の探求に非常に優れているものなので、こんな記事よりもこの二つをチェックするといいかもです。
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