写真を撮るのが上手い人は文章を書くのも上手い説

 写真家、森山大道の『もうひとつの国へ』というエッセイを読んでいる。
 この本の帯には、こんな一文が添えられている。

「火曜日、記すべきことなし、存在した。」というのはジャン・ポール・サルトル「嘔吐」の中のワンフレーズである。

 僕はもう、これだけでご飯3杯くらいいけてしまうくらいこの一文にやられてしまった。
 これは森山大道がフランスの哲学者の言葉を引用している文章であり、彼自身の言葉を綴っているわけではない。しかし、どんな言葉を、どのタイミングで引用するのかというのも、その人のセンスに依るところが大きいのではないだろうか。
 また、引用するためにはその言葉や、その出典を自分が知っておく必要がある。「火曜日、記すべきことなし、存在した。」というフレーズを引用するためには、少なくとも自分がその言葉とどこかで出会っておく必要があり、その言葉を後から引っ張り出せるように自分の中にしっかりと留めておく必要がある。

 と、ここまで書いておいて告白すると、僕は森山大道の熱心なファンというわけではない。氏のことを知ったのはつい最近のことで、それまでは有名な写真家だとか、そういった人たちにあまり興味関心を持ったことがなかった。

 先日東京へ出かける機会があり、そのときにたまたま新宿で開催されていた「DAIDO IN COLOR」という写真展に足を運び、そこで初めて彼の写真をまじまじと眺めた。ご存じの方も多いかも知れないが、彼はモノクローム、ストリートスナップでその名を馳せた写真家である。だから、彼のいちばんの魅力を理解するためには、王道であるモノクロ写真を見るべきなのだろう。もちろん僕も写真集などでその作品を見たことはあるし、カラー写真が見たくてあえてその写真展に足を運んだわけではない。ただの成り行きである。

 さて、この『もうひとつの国へ』というエッセイは、氏が『写真時代』や『BURST HIGH』などに寄稿していた連載をまとめたもので、いくつかの書下ろしや未発表写真なども含まれている。そのせいなのか、単行本のわりに2,600円(税抜)もする。実はまだ半分くらいしか読み終えていないのだが、彼が写真家だからなのか、それとももともと文才があったからなのかは分からないが、彼の書く文章は独特の雰囲気を纏っていて、僕はとても好きである。

 ところどころ表現が古臭いなぁと感じるところはあるけれど、例えば文章を書くことを生業としている人とは、やはり異なる魅力があるように感じる。

 そこで、表題の話である。
 これは僕の個人的な感想というか感覚で、なんら説得に足るような根拠を持ち合わせているわけではない。だが、僕はこう考えている。文章が上手い人が写真も上手いということはあまりないが、写真が上手な人は文章もそこそこ上手である(少なくとも前者よりも確率が高い)と。

 この説に関して、みなさんはどう思うだろうか。
 素敵な文章を書く人に写真を撮ってもらう、素晴らしい写真を撮る人に何か文章を書いてもらう、あなたはどちらに期待を寄せるだろう。僕は、後者のほうが素晴らしい出来のものを持ってくるんじゃないかと感じるのだ。

 なぜそう感じるのかを、論理的に説明することはできない。だが、この森山大道のエッセイを読んでいて僕はそんなことを考えたのだ。写真を撮る人は、文章”だけ”を書く人よりも何か特殊な回路を通じて言葉を紡ぐのではなかろうかと。

 繰り返しになるが、この「写真を撮るのが上手い人は文章を書くのも上手い説」は僕の勝手な推測である。文章が上手くて写真も上手い人だって、もちろんいるのだろう。

 僕が言いたいのは、自分の文章を向上させるために写真を撮るというのも、もしかしたらひとつの有効な手段なのではないだろうかということだ。写真を撮るという行為を通じて、文章を書くという行為に何らかのポジティブな影響を及ぼせるのではないかと。文章を書くだけでは決して刺激されない”器官”のようなものを揺り動かせるのではないか。

 森山大道の書く文章を読んで、僕はそんなことを考えているのである。

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