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メンヘラを自称する人たち

 唐突な話になるが、メンヘラという言葉も、それを自称する人たちも好きではない。
 そもそもメンヘラという言葉の発祥というか、語源も知らなかったので調べてみると、2ちゃんねらーの間で「メンタルヘルス板にいるような人」のことをメンヘラーと略して呼ぶようになったことがそもそもの始まりだそうだ。

 もともとは「精神的な病を抱えている人、その傾向のある人」を表すこの言葉が、どのようなきっかけでここまで一般的?に使われるようになったのかは分からないけれど、今では性格に(多少もしくはかなり)難のある人のことまで「メンヘラの気がある」などと言ったりするようだ。

 僕が(主に性格に難があるという意味合いで使われる)メンヘラという言葉、そしてそれを自称する人たちを好まないのは、それはただ単に「性格に多少(もしくはかなり)難がある」というだけの人が、メンヘラという言葉でカテゴラズされることによって、何だか安心しているように見えてしまうからだ。そしてなぜだか、本人はそれを嬉々としながら告白する。

 性格に多少(もしくはかなり)難がある人というのは、性格に多少(もしくはかなり)難があるというだけで、それはもちろん誇るべきものなどではないし、かといって恥ずべきことでもない。なぜなら、まったく欠点の無い性格の持ち主なんて、ほとんどいないからだ。皆、程度の差こそあれ、何かしらの欠点や短所を持ち合わせている。

 だから、性格に問題があることをことさら他人にひけらかす必要もないし、メンヘラという言葉を使ってそれを覆い隠そうとする必要もない。本人が自覚できていれば、それでいいと思う。

 体調がすぐれない人が自分の病名を告げられて、精神が安定することがあると聞いたことがある。それと同列に語るのには無理があるけれど、人はきっと、自分を何かで指し示して欲しいのだと思う。自分は○○なんだ、だからこうなってしまうのも無理はないんだと、そう思うことで安心したいのだと思う。自分をぴしゃりと言い当ててくれる言葉は、(それがポジティブな意味合いであれネガティブな意味合いであれ)人に安心感を与えるのだろう。

 でも、メンヘラという言葉は、何か重要な事実にフタをしてしまう気もする。直面している課題に対して、何もアクションを取らなくてもいいような錯覚に陥ってしまう。何かを理解した気になってしまう。

 村上龍がエッセイで面白いことを書いていた。太平洋戦争末期の旧日本軍は、「撤退」という言葉を使わず「転進」と言い換えたそうだ。間違っているわけではないが、敗戦という事実から目を背けたい国民からは支持され、一気に流通したそうだ。
 「現実を隠蔽する表現は、角が立たないために必ず好まれる。そしてあっという間に流通する」と村上龍は書いている。

 メンヘラという言葉も、本来であればいちいち表現、表明する必要のない事実なのに、ある特定の傾向を持つ人たちに気に入られ、自己表現として好んで使われるようになってしまった。

 繰り返しになるけれど、性格に難のあること自体は何ら恥ずべきことではないと思う。
 メンヘラという、誰が作ったかも分からない借り物の言葉を被って安心している、その様が嫌なのだ。

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