子ヤギの放牧についての諸々(野球少年観察記3)
母は何かがパチンとはじけた、音がしたように思ったのです。8歳の少年が座り込んで大きな泣き声を上げて泣きはじめたのを見たときのことです。
もとより良い声の出る少年は、泣き方すらもまた美しいのです。
綺麗な三角座りの膝のなかに頭を入れて、無駄の一切無い骨と皮と筋とわずかな筋肉だけの背中を美しく丸めて、気に入らなかった事柄について明確に言葉に絞り出して抗議しながら泣くのですから。あんなに美しい抗議であるならば、周りの人間も戸惑わずに済むというものです。ああ、悲しいんだな。ひどいことをされたと本人が思っているんだな。
何より、限界なんだなって、明確に表現されていて。
昨年の夏前だったでしょうか?
子ヤギ!疲れました!!と元気に指導者に限界を宣言して、駆け足で元気に休憩しに母のところに来て、ほんのしばらくしたらまた元気に練習に戻っていて、その元気いっぱいっぷりで指導者を笑わせていたあの子でした。
ここのところ、元気いっぱいに疲れて、元気いっぱいに休憩して、気持ちよく復活ができなくなってきているのです。きっと、やりたいことが身体や現実の届かないところにあって、手が届かなくて身も心も張り詰めて居る状態なんだろうと母は思うのですが。
あるいは、身体の中に次の彼が育っていて、今の幼い外側ではもう立ちゆかないのかしら。
できること、まだできないこと、したいこと、するべき事、彼の中で言葉にならない思いが小さな身体の中でドロドロに溶けて渦巻いているように感じるのです。そして、外に見える表現としては、平時は非常に静かで繊細なのです。何か語りかけても、問いかけても小さく首を振る程度で、言葉にできない。それは…言葉にできる力量の問題か、言葉にして吐き出して良い心理的安全環境がないせいか、本当は言葉に出しているのに私も他の大人も聞き取れていないだけか、その全部か何かなんですけれど。
確かに何かが育ち始めていて、張り詰めた外側の下に何かが準備されているのです。でもまだそれは、非常に傷つきやすくて、すごくもどかしいもので、そして、それでも時折限界に達してはじけるのです。
…きっかけはほんの些細なことなのだけど。
張り詰めた何かがはじけるとき、きっかけとなる刺激のせいじゃなくて張り詰めているという事が問題なんだ。と思うのです…少年の何かはここのところずっと張り詰めていて、しばしばはじけて、そして、ほんとに些細なことで泣くのです。
大きくなっていく、成長の、発達の過程なのだろうと母は思う、思うけれども大変痛々しく見えて、親は感じてはいないはずの痛みにもだえる事になるのです。あの子の表現力か?とも思うし、それはそれですごいな…と思いますが、はじけるのは、本人のコントロールを越えたところなので、痛々しいし、困るわけです。
何かがはじけるきっかけ、それは、例えば、扉で兄と鉢合わせて、お互いに驚いたとか、走り込みに公園外周を走るのに私がタイムカウントするのが気に入らないとか、兄の天真爛漫が気に入らないとか、それぐらい些細なことなのだけど。
このところの彼は、彼の内側の中で何かとたたかっています。
思春期のはじめに足を踏み入れつつあると思うべきなのかもしれません。
少年野球の新年度は2月なのです。今まで4年生以下チームでお世話になっていたのですが2月から少年野球で可愛がってくれた上の学年の仲間が新5年生として別のチームに分かれて行ってしまいました。主に見てくださっていた指導者と共に。
小さな身体で一生懸命頑張る2年坊主であった子ヤギは、その姿勢が本当にいじらしくてかわいらしくて、4年生の子たちは、自分ができようができなかろうがそれはさておいて大変可愛がってくれたので、子ヤギ自身もとても懐いていて、憧れていて、それが毎週末毎週末野球に向き合うエネルギーになっていました。
本人の憧れと上の子たちの慈しみが、子ヤギにとっての立つ瀬と寄る瀬になって、心理的安全性や居場所を確保していられたのです。
一年が終わって振り返れば、一学年上を差し置いて実際できないけど「できる子」になってしまっていて、だからこの2月からはできて当然、できなきゃ怒られる。だけど、今まで自分のポジションであった場所や憧れていたポジションは指導者の方針もあって、やる気でもアピールでもたどり着けないし、どれほど頑張っても、学年で譲らなければいけないところも多いし、頑張るって言ったって、年相応の力量しか無いしという今ココなのです。と言うわけで、彼には、今のところ寄る瀬も立つ瀬も、頑張る足場を見つけることが難しい状況にはなっていて、3年生で彼の少年野球人生が終わっちゃうんじゃ無いかという私の危惧は本当になりつつあったりするのです。
大人は新しく入った子を引き上げなければならないし、学年でチームを作らなければいけないし…。手が足りないって事なんだろうけれど。
野球は一人ではできないですからね。
とはいえ元気でいさえすれば、試合中ずーっと声を出し続けている息子。
声が聞こえない時は、何か問題が起きているときなのです。
この冬の始まりに、河川敷のグラウンドで息子は寒さで凍り付きました。冬の始まりを予測できなかった親のせいなのです。もう1枚着せておけば…良かったのですが川を渡る風は季節を少し早く運んでいました。
10月のこと。
寒さで声が出なくなって、構えた格好のまま凍り付いた息子…ベンチに下げてもらったあとに、4年生のチームメイトがそれぞれの上着を掛けてくれてもこもこの面白い格好になっていたのです。上手くいこうが行くまいがかわいい子ヤギちゃんでした。小さな彼がそれでも頑張っているという事が、全く強くないチームのそれでも折れない心の糸になっているのではないかしら?と思って見ていました。
この冬の終わりにもう一度凍りました。
3月の冷たい雨の試合で。
沢山着せていたのですけれど。ベンチに下げてもらって、母のベンチコートを着て暖まった後は、指導者のそばに立ってチームで一番一生懸命声を出していました。ベンチの中でも出来る事はいっぱいあって、彼はその分で力の限り一生懸命ではあるのです。脆弱そのものですが。
その前の週にしばらく風邪で数日熱を出し、胃腸症状もあったため体力が落ちていたせいだとその時は親は判断したのです。ですが、自宅に帰り風呂に入るために脱いだものを見て母はやっと悟りました。
一番下の肌着として、なぜか…夏用の涼しい肌着を着ており、練習や試合で少し汗をかいた後で冷たい雨もあり、その肌着が本領を発揮したのでした。
なんてことだ。
本人はどうあるべきか、何をすべきか、以前よりは確かに見えていて、でも力量も現実も学年も何もかも足りなくて、それも本人はわかっていて、言葉にできるほど整理もつかず、だからキュッと唇を結んで耐えて、そのうちパチンパチンと彼の外側が派手にはじけて、その度に母親である私はおろおろとします。
痛々しいながらも母親の手のうちにある事が、母親が手を出すことが口を出す事が良いわけでもなくなってくる子ヤギの姿があります…良い方向に整いますように。ただ今は親は見守る事しかできません。
が、ついつい私も言い過ぎて、「ママまで言ったら逃げ場が無くなる」と父親にたしなめられています。
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