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[ 金剛般若経を読んでみる ] (第二夜) 「Aは偽りであって,not Aであることは偽りではない。ものごとはその両方から見るべきだ」
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概要 中村元・紀野一義訳註「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)を読み進めることで,「金剛般若経」をひととおり読みとおすことを目指しています。今回は p.51 を読んでみましょう。
目的
一緒に,中村元・紀野一義訳註「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)を読みとおしましょう。今日は第二夜,ページは p.51 を読んでみましょう。
如来は特徴を備えたものとみるべきであろうか
ブッダがスブーティーに尋ねます。
如来は特徴を備えたものとみるべきであろうか
如来とは悟りを得たひとのことです。また,ここでいう特徴とは,三十二相のことで,悟りを得るひとの身体的特徴のことだと思われます。手足が柔らかであるとか,手が長いとかそういう目で見える特徴のことです。
するとスブーティーがこう答えます。
いいえ,悟りを得るものはそのような特徴をそなえたものと見てはいけません。それは,悟りを得たものがこう言ったからです。特徴を備えているということは,特徴を備えていないということだ。
「特徴を備えているということは,特徴を備えていないということだ」という表現は謎めいている。「特徴を備えている」は「ある人は特徴を備えている」という意味。その否定だから,「全てのひとは特徴を備えていない」とするのが適当。
「ある人は特徴を備えている」と「全てのひとは特徴を備えていない」とが同じ真理値をとるはずがない。一方が正しければ,他方は必ず間違っている。
これが同じとはどういう意味か。
一方が肯定文,一方が否定文。両方とも同じというのは,おそらく両方とも,ものごとを決めつけてみているという点で同じという意味だろう。
スブーティーは,簡単に言えばこう言っている。
「ものごとの一面だけをとらえて,わかったと思うのは適切ではないと悟りを得たひとがおっしゃった」
関心を持たれた方へ
下の本をもとに記事を書いています。
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