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[神社] 作られる伝承。嘘から真は生じない(サムハラ神社はパワースポットか?)。
多くの神社では拝殿の前で,二礼二拍手一礼します。岡山県津山市にあるサムハラ神社では,六礼八拍手八拍手六礼すると,あるサイトにありました。
『神様に呼ばれた人だけ行ける』と話題のサムハラ神社 [Link]
それを真に受けたわたしは,裸足になって,六礼八拍手八拍手六礼しました。そのとき,わたしの頭にふとある思いが浮かんだのです。だれかが遠くからわたしをみてバカなことをしているなと笑っているのではないかと。それは俺が考えて作ったしきたりで,でっちあげなんだと。
わたしの嫌な予感は,家に帰って,サムハラ信仰を調べているうちに現実味を帯びてきたのでした。
サムハラ信仰
図1 の不思議な文字,これをサムハラと読みます。日中戦争時,兵士がもつお守りにみられる文字です。弾丸よけの効果があると信じられていました。
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このサムハラという言葉にであった男がいました。田中富三郎 (1871-1967) です。サムハラ神社を作ったのは田中富三郎です。昭和10年のことでした。以下では,なぜ田中富三郎がサムハラ神社を作ったのか,渡邉 (2012)の論文をもとに見て聞きましょう。
渡邉一弘 (2012). サムハラ信仰についての研究 : 怪我除けから弾丸除けへの変容国立歴史民俗博物館研究報告, 174, 95-118. [Jstage]
田中富三郎
まず,渡邉 (2012)をもとに田中富三郎の半生を書き出してみましょう。
明治3年
岡山県苫田郡西加茂村に生まれる。
明治21年ごろ
田中,18歳のとき,大阪に出る。
大正7年
大阪にて万年筆の製造販売を始める。
昭和元年ごろ
高野山参拝の際,田中サムハラの文字と出会う。その後,商標登録。
昭和6年
帰郷。真福寺に 400円,金比羅神社に1,000円を寄付(いずれも当時の金額)。
昭和7年
サムハラ新光会を作る。
昭和8年
5月,金比羅神社のある火詰山中腹にサムハラ神社を作ることを計画。
昭和10年
5月,サムハラ神社竣工。総工事費4,500万円(当時の金額)。
昭和11年
11月10日から25日,サムハラ神社,破却撤去。
昭和42年
12月3日永眠。
田中富三郎とサムハラとの出会い
田中富三郎がサムハラと出会ったのは,彼が高野山に参った昭和元年ごろです。当時,彼は万年筆の製造販売を大阪で行なっていましたが,この不思議な魅力のあるサムハラという言葉を使って商売ができると彼は考えました。
サムハラを商標登録し,下駄やステッキに刻印して販売してみたところ,売れ行き好調。サムハラという言葉の神秘性,権威性を高めようと,彼は郷里岡山県苫田郡西加茂村に帰郷します。
サムハラ神社が作られる
田中富三郎は地元の真福寺に 400円,金比羅神社に1,000円を寄付します(今のお金でいうと,それぞれおよそ460,000円,1,100,000円)。
こうして田中富三郎は郷里で信用を得ることに成功。昭和10年には金比羅神社境内内にサムハラ神社を作ります。サムハラ信仰をより権威づけるためには,みんなが信じるような証拠が必要です。サムハラ神社はそんな証拠作りのために作られたといいってもいいのではないでしょうか。
サムハラ神社の自主撤去
しかし,翌年昭和11年には神社は田中自身によって壊されてしまいました。
それは岡山県が神社が宣伝のために作られ運営されているのではないかと田中に問うたところ,田中がこれを認め自ら神社を壊すことを決めたからでした。
神社の創建についてはわからないとする神社が多いです。しかし,サムハラ神社ははっきりわかっていて,商売のためだったということは,本当に驚きです。わたしが参拝したときも多くの参拝者がおられました。近隣の県からも来られている方が多かったです。
このような歴史的背景のあるサムハラ神社をパワースポットなどと持ち上げるのは問題のある行為だと思います。
サムハラ神社のその後
田中富三郎は神社を建てることを諦めていませんでした。
太平洋戦争終結後の昭和21年,再び日詰山山中に社殿を作ります。昭和25年には大阪にサムハラ神社を作ります。田中富三郎は昭和42年に永眠しますが,サムハラ神社の物語はまだまだ続きます。
平成17年,台風によって日詰山にあった社殿は壊れてしまいます。その後,現在の地に場所を移して,またまた金比羅神社の境内にサムハラ神社が作られました。大阪のサムハラ神社と区別して,現在では岡山のサムハラ神社を奥宮と呼ぶようですが,平成17年時点では「奥宮」と呼ぶことはなかったようです。
伊藤 (2021) は岡山のサムハラ神社の管理者の男性に聞き取り調査を行い(2020年8月7日),岡山県のサムハラ神社が奥宮と呼ばれ始めたのは「ここ 4、5 年のことで、事実関係については不明な点が多い」と述べています。
伊藤耕一郎 (2021). 霊性にかんする協働組織―精神世界への新しい視座 [Link]
サムハラ神社が「パワースポット」として認知され出したのは,2010 年(平成22年)だといいます。斉藤一人がこの年,サムハラ神社を参拝してから,クチコミでパワースポットとしてのサムハラ神社の名前が広がっていったといいます。わたしは斎藤一人が誰だかわからないのですが,精神世界で有名な人物だということです。なんにしても,パワースポットだったというよりは,パワースポットになったというところでしょうか。
サムハラ神社について思うこと
伊藤 (2021) の論文では,サムハラ神社での参拝は三礼三拍手が正しいとする人物の言葉も紹介されています。管理する男性は,「勝手におかしな参拝方法を教えている」と困っているそう。
三礼三拍手か。わたしは六礼八拍手八拍手六礼してしまった。いい勉強になりました。
今行われていることは詐欺ではないでしょうか。いやいや,例えば東日本のある旅館では座敷童がでることを売りにしているところもありますよ。みんな,そういうごっこ遊びを楽しんでいるんです。そういう意見もあるかもしれません。
けれども,東北の座敷童の物語は確かに昔あった伝承であって,それで町おこしするにしても根拠があります。地域住民がみんなそれを受け入れているんですから。それに比べてサムハラ神社はどうでしょう。管理者自身が「勝手におかしな参拝方法を教えている」という状況。勝手に作っているんですね。歴史を。
研究対象として訪問する価値はあるかもしれませんが,神社としてはないと私は思います。悲しいです。
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