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[ 金剛般若経を読んでみる ] (第三夜) 「これからわたしたちができること」
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概要 中村元・紀野一義訳註「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)を読み進めることで,「金剛般若経」をひととおり読みとおすことを目指しています。今回は p.51 を読んでみましょう。
目的
一緒に,中村元・紀野一義訳註「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)を読みとおしましょう。今日は第二夜,ページは p.51-p.55 を読んでみましょう。
如来は特徴を備えたものとみるべきであろうか
スブーティーは,こう,ブッダにいった。
「ものごとの一面だけをとらえて,わかったと思うのは適切ではないと悟りを得たひとがおっしゃった」
すると,ブッダはこういった。
そうだ。だから,悟りを得たひとを見る場合には,悟りを得ているひとの特徴があるという観点と,悟りを得ているひとの特徴がないという観点の両方の観点が必要だ。
二つの観点からものごとを理解しようという態度を,ここでは「多面的理解の態度」と呼ぶことにしよう。
そして,ブッダはこう続けた。
すぐれたひとびとは,ものという思いも起こらないし,ものではないという思いも起こらない。これは具体的に言えば,自分自身を自我,生きている主体,個人というものであると思いもしなし,逆に,自我や主体,個人ではないという思いもしないものだ。
さきほどの「多面的理解の態度」とずいぶんちがうことがわかるだろう。さきほどは肯定的見方と否定的見方の両方が大切だと言っていたのだが,今回は,どちらの見方も必要ないと言っている。これを「切り分けない態度」と呼ぶことにしよう。肯定的見方は,その見方でものを決めつけることだし,否定的見方も,その見方でものを決めつけることだ。これをやめようというのが「切り分けない態度」。
どうして,異なるふたつの態度があるのか。
悟りを得られない,すぐれた求道者とは決して言えないわたしたちが,まず取るべき態度。それが前者の「多面的理解の態度」。わたしたちはものごとの一面だけをみる。半分水の入ったコップをみて,もう半分飲んでしまったという思いにとらわれる。まだ半分あるのにもかかわらずだ。そんなわたしたちが,まずすることは,そうした一面的な見方から抜け出すことだ。
そして,その先がある。
それが「きりわけない態度」。こちらの対象はすぐれたひとびと(求道者)の態度である。わたしたちの生活のさきにはこうした世界がまっている。しかし,まずあなたたちがすべきことは,ものごとを一面的に見ることをやめて,複眼的に見る態度をもちない。そうブッダは言っているのだろう。
日常生活のとの関連性
今,多様性を大切にする時代になってきています。と同時にそれに対する反発もありますね。しかし,多様性を大切にする,それぞれの思っていることを大切にするという方向はよい方向であると思います。
これからわたしたちにできること。それは,一面的なものごとの見方から抜け出す第一歩であるからです。
関心を持たれた方へ
下の本をもとに記事を書いています。
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