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[読了]「天皇陛下はなぜ戦犯容疑者とならなかったのか」(野島博之「謎とき日本近現代史」講談社現代新書)

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ルールに従う生き方

1947年10月11日,ひとりの裁判官が餓死をします。食糧管理法に関わる仕事をしていた彼は,闇市で流通している食べものを口にすることに違和感を覚え,それを拒否する生き方を選びました。配給で得られる食料の量は到底生きるには足りず,彼は餓死します。

悪法であってもそれに従うというのは,「悪法も法」といい,自ら毒杯をあおったソクラテスのようです。

ルールの解釈

1945年8月14日,日本はポツダム宣言を受け入れます。この第10条には,「一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加えらるべし」という規定があります。当時の日本の憲法には「天皇は国の元首にして統治権を総攬」するものと定められていました。

戦争犯罪人を裁く東京裁判には28人の戦犯容疑者が並びました。しかし,そこには天皇の姿はありませんでした。なぜ軍隊の最高の指揮権をもつ天皇が東京裁判に容疑者としていなかったのかというのが野島博之「謎とき日本近現代史」(講談社現代新書)の八章「天皇はなぜ戦犯にならなかった」で考察されています。

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ひとつの理由として,天皇は立憲君主として事実上存在しており,君臨すれども統治せずという立場だったというのが,天皇が戦犯にならなかった大きな理由だと書かれています。けれども,それは憲法の「天皇は国の元首にして統治権を総攬」とは相反します。統治せず,統治権を総攬するというのは矛盾しています。

実益がある規定と現実の解離

現実と規定が解離しているとき,あるひとはその解離をなくそうと考えます。しかし,こうした解離はそうしておいたほうが都合がいいからそのままにされていたのではないでしょうか。明治維新のリーダーたちはいわゆる下級武士で権威をもたない。権威のない彼らが仕事をするには天皇の権威が必要だった。だから天皇を元首としてかつぐ。けれども,天皇に統治権を総攬されは自分たちのしたいようにできない。だから,実態としては,立憲君主だとか言って,口が出せないようにしておく(維新後,天皇は親政を行いたいようでしたが,伊藤博文との間に職務六条を約束させられます。このことについては,過去に記事にしていますので,関心のある方はお読みください)。

  • 「個人の好悪によって公務に影響があってはならない」:9月7日は,機務六条が明治天皇と伊藤博文の間で約束された日。[note]

現実と規定とを解離させたままにしているのは,それが実際の権力者にとって都合がよいからでしょう。

今の日本で言えば,憲法で軍隊をもたないことになっていますが,実際には自衛隊という軍隊をもっている。これも規定と現実が解離している一例ですね。やはり,この解離も,現実になんらかの大きな益を生んでいるので,ありつづけているのだろうと思います。具体的には,軍隊をもたないという憲法があるがゆえに,日本は戦闘地域での活動を避けることができます。

自国を守るための自衛隊をもちつつ,決して戦争にはまきこまれない憲法ももつというのは,いいとこどりの生き方で,憲法改正の論議もありますが,このような一石二鳥のようなアクロバティックな方針は今後も拡大しつつ続けるべきなんじゃないかと,この本を読んで思いました。

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