博麗神主ZUN(以下本文では神主)は、ニコニコ動画黎明期の2009年に発売した書籍、「グリモワール・オブ・マリサ」(以下グリマリ)にてこのようなことを後書きで述べていた。
私はこの文を読んだ時、何が「有用な物」で、それがやってはいけないのかわからなかった。しかし先日の2軒目から始まるラジオにおいて、それの答えが出た。
弾幕STGが苦手な人が、うまい人の最適解を、鵜呑みにせずに「遊んでほしい」と言っている。
つまりグリマリでの実況動画についての有用なものは、「どうやったらこのゲームをクリアできるか、強くなれるか」というものだ。
消える攻略の楽しみ
おおよその人間というものは簡単なほうに飛び乗る癖がある。仕事も楽なものに就きたいし、ゲームも簡単に攻略をしたい。
ゲームで弱いとすぐ負けてイライラが溜まる、だからすぐ強くなりたい。だから攻略を見るなり、ソシャゲならリセマラや課金をする。ガチャをする。
例えば、ゲームの動画で誰かが「どの装備が強いよ」と言ってしまえば、大体の確率でみんながその装備を脳死で使うことになる。
脳死で、というのは「何故その装備を選んだか」という問いに対して「XXXXXがこう言っていたから」になってしまうからだ。
脳死でないものは、同じ問いに対して「この装備がこういう効果でこうなると思ったから」と答える。
マリオカート8DXで言えば、ワルイージカートと揶揄されるくらいにワルイージ、ハナチャンバギー、スカイローラー、かみひこうきのカスタムが強く、多くの人が使っている(全員このカスタムであることもそこそこある)。
その使う理由が「このカスタムが強くて、ワルイージは細くて見やすいから」なら良いが、「あの人が使っていた」ではゲーム本来の面白さが損なわれる。
上の引用でJYUNYA氏が
と発言していたが、実際これは自分で試行錯誤した結果であり、上の問いに脳死ではなく答えられるものだ。
「ぼくのかんがえたさいきょうのそうび」とは何か、他人と意見をぶつけられる。
有用な眼
とあるが、これはどういうことか。
ゲーム実況はその人のプレイや実況を「目的」として見る場合がほとんどだろう。しかし有用な眼で見てしまうと、その人のプレイが攻略、クリアのための「手段」になってしまう。つまり人のプレイを見ることが「目的」ではなく「手段」になっているのだ。
人を手段として扱うことについてはいずれ書く予定だが、今はこの動画を参照されたい。
音ゲーの譜面確認も、楽にクリアしたいという思いから出るものではないのだろうか。しかしそれはその動画を己の目的達成のための「手段」として使っていることになる。
私は「手段」に使うものが全部悪だとは言っていない。しかしそれがゲームを攻略する「面白さ」「楽しさ」を奪っているのかもしれない。
実際私も、東方永夜抄EXのスペル「一条戻橋」が何度やっても攻略できなくて、攻略動画を見てしまったことがある。
さらに、弾幕アマノジャクも攻略動画で攻略法がわかってしまい、簡単にそのスペルをクリアしたことだってある。しかし、その簡単にやってしまったものは、何度やってもクリアできなかったスペルに対して印象が少ない。何度もやったものはどういうスペルか思い出せるが、簡単にやったものはどういうスペルだったか記憶がない。
上の二軒目ラジオ以降私は自分なりに東方原作をいくつかやったが、この方がとても楽しかった。弾幕STG本来の楽しみ方ができたのだと思う。
ところで、弾幕ごっこの元、「命名決闘法」の原案「命名決闘法案」には次のようなものが書いてある。
それと同時に、グリマリの後書きで魔理沙はこう言っている。
この話、神主の実況の話でもあったのだ。虹龍洞で言えば、
「何も制限されていないという事は、何でも出来る反面、すぐに最適解(最強の機体)が求まってしまい、余計な事(何周も挑戦すること)はしなくなる」
「自由ならば『最も使いやすく(早苗)最も効果的な攻撃(カード)』だけを行えば良い。しかしそれでは弾幕(ゲーム)とは呼べなくなってしまう」
弾幕は決闘であると同時に美しさを目的にする。美しさを競っている。
しかし決闘だけを目的にすれば、全画面に発射される隙間の無い弾幕になり、美しさを楽しむことが無くなるのだ。
娯楽のゲームも、クリアするという目的(ゲームによる)と同時に遊ぶということを目的にしている。しかし昨今の攻略動画はクリアすることだけを目的にし、遊ぶことを楽しんでいないのだ。
グリマリの後書きで神主が言った、
とは、ゲームも動画も楽しむためのものではなく手段として消費されるものになってしまうことを指しているのではないか。
ゲーム実況は他人のプレイを楽しむものだ。それが無くなれば文化が崩壊するのも当然だろう。
せめて新作は
つまり、神主は実況動画を見ることを楽しみ目的とし、ゲームは遊ぶことを目的とする。お互いはあまり干渉しない方が良いと言っているのだ。
しかし今の世の中は短くなるプレイできる時間と長くなるゲームをする想定時間のせいで、ゲームを遊ぶことを楽しまずに、楽にゲームを攻略したいという思いも重なり実況動画とゲームを攻略のために消費してしまう。
だがそうなってはいけない。ゲームも動画も一つの娯楽だ。それぞれで楽しまなくてはいけない。
ゲームはクリアを目的にしても他人のプレイを鵜呑みにせずに試行錯誤することを楽しみ、動画はプレイを見ることを目的として楽しむ。でなければゲームの面白さや楽しさが損なわれてしまう。
それができないというならば、せめて「バレットフィリア達の闇市場」だけは他人の動画を見ずにゲームを遊ぶこと楽しむべきだ。いや、動画を見たとしても、そのアドバイスを鵜呑みにせずに独自に試行錯誤を楽しむべきだ。それが「遊んでよ」という製作者の願いだから。
私は消費されるような実況動画から手を引くつもりだ。作るとしても遊ぶことを目的とした上での実況動画だ。
さて、正しくゲームを遊ぶ事はできるだろうか?
以上。