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日本は文化後進国なのかもしれない

公務員としての演奏家

▼高校の同級生がオーボエの首席奏者を務めるボン・ベートーヴェン管弦楽団の演奏がYouTubeにアップされています。

▼このオーケストラはボン市が運営する楽団で,団員は公務員になるわけです。年に6週間の休みが保証され,今回のパンデミックでは市の職員としてワクチン接種の誘導にもあたったそうです。自治体がオーケストラを運営し,団員が公務員として働けるというのは実に羨ましい話だと思います。かたや日本では,オーケストラに限らず音楽や芸能などの文化事業は全て民間任せで,仮に正規の公務員として雇うなどと話が出たら,烈火のごとく猛反対する人が出てくるでしょう。

▼ちなみに,こちらの資料『日本のオーケストラの課題と社会的役割 ― 東京におけるプロ・オーケストラの状況を中心に ―』(第二特別調査室 新井 賢治)によると,東京都交響楽団については,次のような経緯があったそうです。

昭和36(1961)年に東都知事(当時)が海外との文化交流等の見地から発案し、都教育委員会で検討された。当初、東京都の直営で検討されたが、「楽員の身分、勤務条件、給与を地方公務員法等の現行法で律することが困難であること、また文化事業は芸術性向上のため、その自主的運営が望ましいという観点から財団法人とすることとした。」

「不要不急のものなのか?」

▼日本で,オーケストラだけでなく,文化事業に携わる演者を公務員として雇うことができないというのは,文化を「必須のもの」と市民が認識できていないことのあらわれなのではないか,と思うことがあります。もちろん,文化や芸術を公のものにした場合,活動内容が制約される可能性もありますし,ヨーロッパのようにオーケストラが人々の生活に根差しているわけではありませんから,日本でヨーロッパと同じことをすることは難しいでしょう。しかし,今回のパンデミックでは「不要不急」ということばで恣意的な境界線が引かれ,その結果,演奏や演劇が軒並みキャンセルになりました。言い換えればこれは,日ごろ,そうした文化に携わる人々の生活が大切にされていないことのあらわれではないかとさえ思うのです。

▼もちろん,コンサートや芝居は人が集まるから中止になるのは理解できますが,そうなると演奏家や役者,そして裏方さんたちはたちまち仕事を失います。中にはオンラインでコンサートや舞台を動画配信して仕事を作ったところもありましたが,それはごく一握りですし,そもそもこうした生業の人々はただでさえ日ごろから収入も不安定なことが多いのに,こうした非常事態になるとさらに不安定になる,というのは非常に理不尽で悲しいことです。

「無縁」と芸能

▼ただ,上に述べたように,文化や芸術を自治体などが運営するとなると,活動内容が制約される可能性もありますし,そもそも,日本において文化や芸術はある意味,日常的な「しがらみ」から解き放たれた「無縁」の場で成長を遂げてきた歴史があるとも言えるので,自治体が運営すること自体,本来の文化や芸術の在り方とはそぐわないものなのかもしれません。たとえば,歴史学者の網野善彦氏の著作『無縁・公界・楽』では,「芸能」民の立場について,次のように述べられています。

遍歴する「芸能」民、市場、寺社の門前、そして一揆。これらはじつはみな、「無縁」の原理と深い関係をもっているのである
網野 善彦. 増補 無縁・公界・楽 (平凡社ライブラリー150) (Kindle の位置No.421-422). 株式会社平凡社. Kindle 版.
さきに江戸時代について一言したが、実際、文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この「無縁」の場に生れ、「無縁」の人々によって担われているといってもよかろう。千年、否、数千年の長い年月をこえて、古代の美術・文学等々が、いまもわれわれの心に強く訴えるものをもっていることも、神話・民話・民謡等々がその民族の文化の生命力の源泉といわれることの意味も、「無縁」の問題を基底において考えると、素人なりにわかるような気がするのである。
網野 善彦. 増補 無縁・公界・楽 (平凡社ライブラリー150) (Kindle の位置No.3050-3055). 株式会社平凡社. Kindle 版.
本文で狂言「居杭」の算置に即してのべたように、「公界者」は主従関係の縁から切れた人 ─ 芸能民であり、その縁によって手をかけられることを拒否する人々であった。たとえこの宴席で、毛利・小早川氏の人々の「幇間」であったとしても、「公界衆」はもとよりその従者だったわけではなく、また別の大名の宴席や地下の人々の祭礼などで、その芸能を演じていたのである。その意味で、「公界衆」は主人としての「上」を持たぬ人々であった。
網野 善彦. 増補 無縁・公界・楽 (平凡社ライブラリー150) (Kindle の位置No.3513-3517). 株式会社平凡社. Kindle 版.

▼あるいは,芸能の世界の人々を「河原者」と蔑称することがあったことや,芸能の世界と反社会的勢力とのつながりなどを考えると,芸能で生計を立てることに対して日本では,身分が低い,真っ当ではない,卑しい仕事とみなす歴史があったことが,文化や芸術を軽視する姿勢に根強く影響してきた可能性もあるのではないでしょうか。

人はパンのみにて生きるにあらず

▼文化や芸術・芸能は「心のゆとり」ではありますが,かつ,「人はパンのみにて生きるにあらず」*と言われるように,私たちの生活になくてはならないものだと言えます。非常時に「不要不急」という恣意的な言葉で切り捨てられるべきものではないはずですし,日常的にも,敷居の高いものではなく,生活の一部として取り入れるべきものだと言えます。

▼これは2020年3月の記事ですが,ロックダウンされたイタリアでは〈各地の住民が次々に窓辺に立ち、歌を歌い、楽器を弾き、音楽でお互いの士気を上げようとしている〉様子が報じられました。

▼こうした文化や芸術が日常生活の中に根差し,尊重されているからこその行動だと思いますし,厳しい生活の中でも「心のゆとり」を持とうとする成熟した態度ではないかと思います。そうなると,文化や芸術を日常的に尊重したり親しんだりすることなく,しかも非常時には「不要不急のもの」として切り捨ててしまう日本は,残念ながら「文化後進国」「文化未成熟国」なのかもしれません。

〈注〉
*「人はパンのみにて生きるにあらず」は,旧約聖書「申命記」8-3にある以下の言葉が元々のものです。

それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。

▼新約聖書「マタイによる福音書」4では,イエスがこの言葉を引用して以下のように述べています。

1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
(太字引用者)

▼ですから,本来は「人は物質的なものだけによるのではなく,神の言葉に養われて生きているのだ」という意味ですが,そこから転じて「物質的なものだけでなく,精神的なものも大切にする必要がある」という意味で用いられ始めたようです。なお,以下のような説明もあります。

 「パンだけで生きるものではない」との表現は、「パンで生きる」ことを否定してはいません。一読するだけで、パンと神の言葉の両方の必要が主張されていると理解できます。実に、私たち現世に生きる者にとって、パンは必需品です。パンとは、私たちが必要としている全てのものの代名詞ですから、私たちは、確かに、パンを必要としているのです。そのような今日的状況の中にあって、「パンだけで生きるものではない」というイエス・キリストの言葉は、いつのまにか、私たちの伝統的価値観である「衣食足りて礼節を知る」のように理解されているのではないかと思わされるのです。即ち、パンを充分に得た後において初めて、人は神の言葉によって生きることができるのだとの理解です。もしくは、パンがなければ「神の言葉で生きる」という部分は成立しないとの考え方です。
 この考え方に対する修正は、イエス・キリストが引用した旧約聖書申命記八章三節の言葉の中に見出せます。申命記八章は、モーセの言葉です。イスラエルの民が、奴隷とされていたエジプトから脱出し、四十年間、荒野を放浪した出来事に関し、モーセは、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と語ったのです。即ち、マナという食べ物を与えた時だけでなく、苦しんでいた時も、パンがなくて飢えていた時も、主はイスラエルの民と共にいたのだと語っているのです。神の言葉は、実に、パンの有無を超越したレベルにおいて、人が生きるための重要な要素であると語っているのです。その申命記八章三節を、イエス・キリストは、引用しました。イエス・キリストは、人間の欲望を刺激し、派手なパフォーマンスをもって私たちに近づく方ではありません。沈黙しているように思われても、確かに、私たちの傍におり、私たちを支えてくれているのです。神の言葉によって生きるとは、私たちの真の理解者であるイエス・キリストと共に生きることです。パンを必要としない時においてもなお、人は、神の言葉を必要とする存在なのです。イエス・キリストが語った「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」の言葉をじっくり味わいたいと思います。

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