意味という病
「最後の功績?」
▼先日亡くなられた志村けん氏について,小池百合子都知事が〈最後に悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています〉と発言したことが話題となりました。
▼昔から,人は,誰かの死に対して特別な意味を与えることを繰り返してきました。たとえば,戦争に関して言えば,死んでもラッパを口から離さなかった逸話や,敵陣に爆弾を抱えた三人組が突進して爆死した逸話など,いわゆる「軍国美談」は数知れず存在します。また,逆に,戦争や災害,あるいは病気など危機的な状況を生き延びたことに対しても,「何か使命があったから生き延びた」「神様が生かしてくれた」といった意味付けが数多くなされてきました。
死や生に「意味付け(物語化)」を行うこと
▼人は,死や生に対するそうした「意味付け」を行うことで生きてきました。そうした意味付けのことを「物語化」と呼ぶこともできるでしょう。私は,死や生を物語化すること自体を悪く言うつもりはありません。生きていくことも,人の死を受け入れたり,自分の死と向かい合うことも,とてもつらいものです。だからこそ,人は「意味付け」を行い,物語を作ることでそのつらさに耐えてきたのですから。たとえば宗教も,本来はそうしたものだったはずです。自分の好きな人が亡くなった時,その人の死を受け入れ,向かい合うために,宗教的な儀礼を通じて何らかの「意味付け」「物語化」がなされるシステムになっているはずです。
▼自分がこの世に存在していることの「意味」が全くない,ということに耐えられるほど人は強くありません。ただ,志村氏の死を「最後の功績」と呼んだ小池都知事の発言に違和感を感じたとしたら,それはまさにこうした「物語化」への違和感であり,さらにはその「物語」を政治的に利用しようという意図が見え隠れしていたことへの抵抗感ではなかったかと思うのです。
▼死は,生物としての生命維持活動の終わりに過ぎません。それがウイルスによるものであれ,事故によるものであれ,生物である以上,人間も,他の生物同様に生命活動の終わりがやってきます。私もいつかは死にます。あなたもいつかは死にます。生物である以上,逃れることはできません。しかし,先に述べたように,人は「意味付け」「物語化」を通じて,理不尽な死や辛い生に耐えてきたのですから,そこに単なる「生命維持活動の終わり」以上の意味を見出そうとしてしまうことからは逃れようがありません。ある意味,私たちは「意味という病」にかかっていると言えるでしょう(ちなみに,この『意味という病』という言葉は,哲学者・批評家の柄谷行人氏の著作の題でもあります)。
ウイルスに「意味付け」は通用しない
▼これは死だけではありません。たとえば,ウイルスに感染したか否かということにも,人は様々な「意味付け」を行います。ウイルスは人を選ばず感染します。一国の首相でも,芸能人でも,スポーツ選手でも,市井の人々でも,老若男女問わず感染します。たとえ,マスクをして手洗いとうがいを徹底しても,感染するときはしてしまいます。そうなるともはやこれはもはや「運」の問題であって,どうやってその確率を下げるか,ということに他なりません。ところが,私たちはそうした「確率論」に対しても「意味付け」を行ってしまいます。
▼「日ごろの行いが良い(もしくは,悪い)からだ」「罰が当たった」というのも,そうした「意味付け」の一つだと言えるでしょう。また,「日本は神の国だから大丈夫」「神様が助けてくれた」などという言説は「物語化」の最たるものと言えます。たとえば同じ狭い空間で一緒に過ごしているにもかかわらず,ウイルスに感染した人と感染しなかった人がいるとすれば,それはもはや「運」以外のなにものでもなく,「たまたま感染しなかった」としか言いようがありません。ウイルスには人間の「物語」などわかりません。誰が品行方正で,誰が品性下劣かなどと判断して感染しているわけではないのですから。
ギャンブラーの誤謬
▼「確率論」に「意味」を求めるのは,たびたび,ギャンブルにおいてみられる誤りでもあります。たとえば,サイコロを振って,3の目が5回立て続けに出た場合,次に3が出ることはないだろうと考えたり,逆に,10回サイコロを振って1回も1が出なかったら「次は1が出るはずだ」と考えてしまう,といった誤り(「ギャンブラーの誤謬(ごびゅう)」)や,バスケットボールで連続してゴールを決めた選手に対して「次もゴールを決めるはずだ」と考えてチームメイトがボールをパスする「ホットハンドの誤謬」がこれにあたります。完全にランダムで独立した事象は,そこに何か「意思」のようなものが見えたとしても,それは勝手な思い込みに他なりません。
▼もちろん,確率論に意味付けを行うことが論理的には誤りであるとしても,先ほど述べたように,私たちはつい「意味付け」を行い,「物語」を生み出してしまうものです。そして,文学作品などは,そうした「物語」があるからこそ面白くなる,という場合もあります。
▼たとえば沢木耕太郎氏の小説『波の音が消えるまで』では,主人公がマカオのカジノでギャンブルに魅せられ,ずるずると深みにハマっていく様子が描かれていますが,純粋な確率論に過ぎないギャンブルに対して,主人公はそこに何らかの「意味」を見出そうとします。「そんなこと,あるはずがない」と思いながらも,「ひょっとしたら…」と思わせる,その描写が何とも言えずスリリングです。
▼ちなみに,沢木氏の有名な著作『深夜特急』(インドのデリーからロンドンまで,路線バスだけを乗り継いで旅をした半年間の紀行文)では,インドに向かう途中のマカオで沢木氏がカジノに立ち寄り,ギャンブルにハマってしまう様子が描かれていますが,この小説はおそらくその時の体験をひな型にしたものではないかと考えられます。学校がお休みの間に(もちろん,そうでない人も),何か読んでみたいという人はぜひこちらの『深夜特急』を全巻通して読んでみてください。その後に『波の音が消えるまで』もぜひ。
死を「物語化」するのは人間だけなのか
▼大学生の時,サークルの合宿で訪れた河口湖で,レンタカーを借りて友人たちとなぜか猿を見に行きました。おそらく,その当時存在していた「河口湖野猿公園」だったと思うのですが,サル山で猿を見ていた時,子ザルを抱えた母ザル(父かもしれませんが…)がいました。子ザルは眠っているのか,母ザルの腕の隙間から細い腕がだらりと垂れていました。
▼そのサル山では餌を買って投げ与えることができたので,私たちもそうしていたのですが,その母ザルのところにうまく投げることができず,しかも子どもを抱えていたために,他のサルに先を越されてばかりでした。ようやくその母ザルの近くに餌を投げることができた時,その母ザルはその場に子ザルを放り投げて餌を取りに行きました。しかし,その子ザルを見て私たちは愕然としました。
…それは,干からびた,子ザルのミイラだったのです。
▼母ザルは餌をとるとすぐに子ザルのところに戻り,何事もなかったかのように再び子ザルを抱えて歩き始めました。
▼あの母ザルは,子どもが死んだことを理解していたのでしょうか。もしそうだとしたら,何のためにずっとあのように子どもの亡骸を抱きかかえていたのでしょうか。そこに何らかの「意味」はあるのでしょうか。私たちが亡くなった大切な人の形見を持ち続けているように,あるいは,大切な人を弔う時のように,あの母ザルにとって,子ザルの亡骸を抱き続けることは彼女にとっての「弔い」だったのでしょうか。いずれ,あの亡骸は朽ち果てていきます。そうして腕の中から我が子が消えた時に,彼女にとって本当の意味での「我が子の死」がやってくるのでしょうか。そして,彼女は亡くなった我が子を「記憶」し続けるのでしょうか。
▼合宿の宿泊所に戻る道中,そんなことをずっと考えていました。答えは出ていません。今でも。
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