信頼と社会の複雑性
世界はまだ終わっていない…?
▼朝,目が覚めて,カーテンを開けて外を見る。「ああ,人が歩いている。車も走っている。よかった…世界はまだ終わっていないのだ…」こんな風に思うことはあるでしょうか(厨二病っぽいですね)。おそらく大半の人はそんなことは考えず「普通に」起きて身支度をして,特に何も考えずに学校や職場に向かうのが常ではないでしょうか。
▼そして,通勤通学の途中も「この電車が事故にあうかもしれない」とか,「あの角を曲がったらライオンが襲い掛かってくるかもしれない」などと思うことなく,いつものように「普通に」学校や職場に向かうでしょう。もし逆に,朝,目覚めた瞬間から「ひょっとしたら誰かが襲いかかってくるかもしれない」「家を出たとたんに戦争が起きるかもしれない」「通勤途中にテロに遭うかもしれない」などと真剣に思い悩み始めたら,もはや布団から一歩も出ることができなくなります。
▼しかし,そうした「不安」を抱くことがばかばかしい,と思ったり,そんな悩みを持つことはない,と一笑に付すことができるのはなぜでしょうか。むしろ,そうした「不安」を抱かないことの方が不思議ではないでしょうか。何しろ,つい3か月前までは,まさか日本で緊急事態宣言が出されることになりそうだなんて,夢にも思っていなかったではないですか。
▼私たちが生きている社会は,きわめて複雑です。誰一人として,その全体像を知っている人はいません。そして,その複雑さは刻一刻と変化し,さらに把握することが難しくなっています。それにもかかわらず,私たちがこうした「不安」を抱かずに「普通に」生活できているのは,〈信頼〉によって社会の複雑性を縮減しているからで,〈信頼〉があるからこそ,高度に複雑化した社会システムが成り立っている,と主張した社会学者がいます。それがニクラス・ルーマンです。
信頼が社会の複雑性を縮減する
▼社会が複雑であるということは,ある意味,選択肢の数が無数に存在している,ということです。「朝,目覚めた時,誰かに襲われるから防御しなければならない」とか「食事に毒が入っているかもしれない」とか,自分の身に降りかかる危険性とそれに備えるための選択肢を挙げればきりがありません。それにもかかわらず,私たちがそうした不安を抱かずに「普通」の行為を行えるのは,〈信頼〉によってそうした選択肢の数が極めて少なく縮減されているからにほかなりません。
▼ルーマンは,「信頼」を二つの次元にわけて論じました。
信頼は,まず第一に日常的な世界習熟という土台の上の,個人的な(従って限定された)それである。信頼は,他者の行動における不確かさの契機―それは,対象の変化の予見不可能性が体験するものと同様である―を架橋することに役立つ。複雑性の必要が増大し,他者が他我として,つまり,この複雑性とその縮減を共に引き起こす者として考慮されるにつれて,信頼は拡大されねばならず,そして,かの始原的で問題の余地のない世界習熟は,全部が置き換えられうるものでないにせよ,後退させられねばならない。信頼は,その際,新たな種類であるシステム信頼へと変化する。
(ニクラス ルーマン著/野崎 和義・土方 透訳,『信頼―社会の複雑性とその縮減』(フィロソフィア双書),1988,p. 37)
▼第一に,日常生活における他者の行動への「信頼」です。日常生活において,通り過ぎる人が自分にいきなり殴りかかったりしないと「信頼」し,家族が自分の料理に毒を盛ることがないと「信頼」しています。これはいわば「個人的信頼」と言えるでしょう。しかし,複雑な社会システムが維持されるためには,日常生活における個人的信頼を超えた「社会システムに対する信頼」を持つ必要があります。
▼たとえば,私たちは選挙の投票をしに行きますが,その際,選挙で不正が行われるはずがない,自分が投票することによって政治に自分の意見が反映させられる,というように政治システムを「信頼」していることが前提となります。また,普段,貨幣を使って生活していますが,それがいきなり使えなくなることがないというように,経済システムを「信頼」して生活しています。明日,いきなり革命が起きて政府がひっくり返り,今使っている貨幣が使えなくなる,なんてことは思いもよらないわけです。しかし,そうした社会システムへの信頼は,あまりにも複雑ゆえに,一般の市民にはコントロールできず,専門家を信頼して委ねるほかにありません。いちいちすべてを疑ってかかっていては,社会システムが機能しなくなります。
システム信頼のコントロールは,ますます専門知識を必要とする。貨幣制度や真理に関してこのことは自明である。信頼に値することの間接証拠を簡略に査定することさえ,ここでは専門家にのみ可能である。(前掲書,p.95)
▼これは,「こんな政治家は信頼に値する」とか「見ず知らずの人を信頼してはいけない」というような道徳的・心理的な問題ではありません。たとえば,ネットオークションである品物を落札してお金を送った時,その品物が届かなかったとしましょう。その場合,相手を訴えて警察に逮捕してもらったり,裁判にかけて代金を返金してもらうように働きかけることができます。この時,私たちは「貨幣制度(お金を払ったら品物と交換できるという前提)」や「政治制度(相手を訴えたら逮捕してもらえたり,裁判にかけることができるという制度)」を信頼している,ということになります。これは「個人的に貨幣制度や政治システムを信頼すべきか否か」という問題を超越したものです。
▼また,「貨幣制度や真理に関してこのことは自明である」という場合の「真理」とは,科学システムにおける真理のことです。科学の世界もあまりに広く複雑で,私たちはその全体を把握することはできません。しかし,科学的に発見された「真理」に対して一定の信頼をおいているからこそ,科学システムは成り立っているとも言えます。コロナウイルスの問題にしても,原発事故における放射能汚染の問題にしても,専門家・科学者の間で異なる見解が出されているために混乱が生じていますが,そもそもの大前提として,その諸説のうちのどれかが真理である(こっちの説が正しくて,あっちの説は誤りである),ということに関しては「信頼」しているはずです。
コロナウイルス禍における「信頼」
▼信頼が社会の複雑性を縮減する,という考え方は,ある意味,社会がいつにもまして混沌としているまさにこの今において検討すべき問題でしょう。政治にしても経済にしても科学にしても,今回の問題が含んでいいる要素はあまりにも大きすぎて,誰一人全貌はつかめません(だから「陰謀論」が跋扈するのですが)。また,ウイルスの感染の度合いも,他の国がこうだったから日本もこうなる,とか,他の国とは違って日本はこうならない,という保証は一切ありません。しかし,私たちはそうした複雑さに耐え切れず,「過去にこうだったから,これからはこうすればよい」とつい単純化して考えがちです(いわゆる「早まった一般化」)。
▼このことについて神戸大学医学研究科の岩田健太郎氏は次のように述べています。
▼「一般化できるところ」を見極めるためには,より多くのデータと時間が必要になります。しかし,今回の場合,それを悠長に待ってはいられません。複雑性を縮減することも必要ですが,それだけではなくむしろ,複雑性をできるだけ複雑なまま受け止め,可能性のあるあらゆる手段を講じることこそ―つまりはシステムに対する〈信頼〉をいったん棚上げにすることこそ―事態を打破するために必要なことなのかもしれません。もちろん,それに割けるリソースは有限であるのですが。
▼個人レベルで言えば「私は大丈夫」という〈信頼〉をいったん棚上げにすることが必要でしょう。政府のやることに対する〈信頼〉も眉に唾をつけておく必要があります。この事態下でも一律の万全な補償なしに緊急事態宣言を出そうとしているのですから。