読書】『新編 東洋的な見方』 鈴木大拙 著 上田閑照 編 岩波文庫 1997年
『井筒俊彦 叡智の哲学』(若松英輔 著)の中に鈴木大拙について触れられている。
偶然、鈴木大拙の本を持っていたので、読むことにした。
最初にことわっておきたいが、僕は初めから読み進めていったが、最後にある本書の選者である上田閑照による解説である「鈴木大拙における「東洋的な見方」」のIを読んでから読み進めたほうがいい。
大拙は日本の禅僧である。ただ、明治時代30年(1897年)渡米し、その後明治42年に帰国するまでアメリカ、ヨーロッパで生活をしている。このことを上田は「西洋的「生活世界」を具体的に生き」そして「英語が外国語でなくなったこと」が「大拙の生涯の生の質を決定するもの」であったと書いている。
このことを理解してから本書を読むと、大拙の文章の理解が変わってくる。
東洋的であることの極である「禅」を生き方としているのに、日本に対して鋭く迫ることがある。現代の日本は、もはや東洋的ではないが、それに対してもっと西洋的であれ、と迫ってくる。「大拙の生の質」を理解しないと息苦しくなる。もしくは、感情的に本書を読むことを止めてしまうことになるかも知れない。
文章は好々爺的に書かれているものもある。そりゃそうだろう、全34編のうち25編が大拙90歳から95歳にかけての文章である。驚くのは、上田も書いているが大拙の90歳の精神の瑞々しさだろう。
僕は本書の中で70歳代に書いた「物の見方ー東洋と西洋」が特に印象に残った。
第二次世界大戦終戦のすぐ後、1945年12月に書かれたものであるが、不幸な戦争に突入していった時代の日本の精神を西洋の合理的な精神、いや大拙の合理的な精神をもって強烈に批判している。冒頭で解説から読んだ方がいい、と書いた所以はここにある。大拙の合理的精神は本書の至るところに輝いている。
しかし、「物の見方」では、なぜこうなってしまったのか、と大拙が大声で哭きながら迫ってくる。
そして、大拙の問いに対する答えをはっきりさせないまま、合理性を経済の分野のみで実践してきた今の時代にも迫ってくる。
大拙の問いに対して、誰がどう答えるのか。
重い宿題が残っているのだ。