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この文章を書くにあたってのお礼と感謝ずっと、私の人生のテーマになっている「幸せに生きる」ということ。 大学の卒論のテーマが偶然にも宮澤賢治の銀河鉄道の夜における幸福論になり、そこで「まだこの論文は完結していないね。研究し続けなさい」と言ってくださった恩師の言葉を胸に、そこから長い間そのことと向き合う時間も取れず時が過ぎていきました。 しかしその間ありがたいことに、「教育」という場所で向き合う人の「幸せ」と対峙しながら人生の半分以上を過ごすことができました。 この文章も構想し
6章の終わりに「おなじ尺度を持つ仲間がいて、集団の中で役割をもって生き抜くことができればそれが「幸せに生きる」ということになるのかもしれない」と書いたが、補足をすれば違う尺度や価値観が違う人(生物もかもしれない)を否定するのではなく、尊重することが大切だと思う。 地球という小さな惑星のことだけではなくその周りを取り巻く宇宙も、人はどれだけのことを「正確に」理解しているのだろう。 誰が必要で何が不必要かなど、なにものも決めることなどできない。 もし決められるとしたら、ある限ら
あらためて「幸せに生きる」とは何かを考えると、自分の「好き」を集めてその瞬間瞬間を精一杯に生きるということなのだうと思います。 「幸せ」とは事柄ではなく感性なので、その感じ方は一人ひとり違っています。 極論かもしれませんが、生きる目的があってもいいし、なくてもいい。 達成したい目標があってもなくてもいい。 ただ、自分の「好き」の感度を上げて感じていく。 もし、困難があれば自分が思う方法で乗り越えたり解決していく。 それを決めるのは自分自身なのでしょう。 決めるということは
不安・恐れについて変化は怖い 変化は危険も一緒に連れてくるときもある。 だから、人にとって変化は恐怖を感じて当然です。 むしろ恐怖を感じないことが原因で危機に鈍感になり、命を落とすことの方が自然界では多いです。 けれど、科学技術の進歩は昔のように10年や半世紀をかけて緩やかに社会を変化させるのではなく、3年から5年の短い期間で社会を変えていきます。 今はもっと早くなっていて1年で大きな変化をしているように感じます。 これはとても大きな変化です。 多くの人にとってストレス
衣食住と自分の欲求を満たすこと趣味の大切さ 今、この時点の私の感覚ですが、幸せに生きる人生とは[趣味そのもの]のようだと思っています。 「趣味」を辞書で調べると「①(本業ではなく、また実益などを考えずに)好きでしているものごと。②その人の好みの傾向。③そのものに含まれる味わい(おもしろみ)」(三省堂『現代国語』より引用)とあります。 「本業」が生物として「生きること」だとすると、それ以外の行為や行動はその人自身が選択することができるので「趣味」と同じだと思っています。