ラベルと中身と生きづらさ
「ゲイであると生きづらいんじゃないですか?」
普段クローゼットな自分でも匿名な世界ではオープンにするときもある。これはそんな時にふと聞かれた質問であった。
多分、求められてる反応としては「もちろん生きにくいですよ、だって…」と理由を滔々と語ることだったのであろうが、その時その質問にひっかかりを覚えて微妙な反応を返してしまったことを覚えている。(質問者を批難する意図は全くない)
あれからたまに自分の属性と"生きづらさ"について考えていて、たしかに"生きづらさ"を感じる瞬間がそれなりに多くあるので世間一般よりも生きにくい人生なんだろうなと思っている。ただそれがゲイであることから来ているかと言われるとちょっと答えに困ってしまう。
自分にとってゲイであることは自分のアイデンティティの一部でしかなくて、その属性だけでは語れないことも多くあり、たまにそのラベリングで纏めるのが適切でないと感じることがある。自分は日本的な価値観を持ってるし、男子校出身だし、わりとリベラルな考え方をするし…etc.
ちょうどワインとラベルに書かれていても産地とかブドウの品種で全然味が変わるように、自分もゲイではあるけれど色んなゲイの中の一つでしかないのと同じように一括りにしないで…と思ってしまう時がある。
もちろんヘイトスピーチとか同性婚訴訟とかのニュースを見るたびに当事者として憤りを覚えることもあるし自分の核には間違いない。
だけれど、その一点をもって生きづらいわけではなくて、「ゲイ」✕「日本社会で生きること」、「ゲイ」✕「神経質な性格」、など他の要素と組み合わさって自分の中で生きづらさを形成している気がするのであるというのか今のところの自分なりの生きづらさの原因への答えな気がしている。
それと同時にすべてのLGBTQが生きづらさを抱えてるわけではなくて、ノンストレスで溌剌と生きている人もいるわけで…(ヘテロセクシュアルの方がみんな生きやすいわけでもない)
やっぱり生きづらさという主観的な話を十把一絡げのラベルで語ることは適切でないのかもしれない…と思ったりもする。
ちょっと前に朝日新聞のポッドキャストでラベリングは話の補助線という記者の方の話があった。確かに理解をしやすくなる上であったら便利なものではある。ただあくまでも補助線であり本質はよく聞いてみないとわからない。
もしかしたらラベルにワイン書かれていても飲んでみたらタンニン感があんまりなく甘みが強いブドウジュースのようなものだったなんてこともあるのかもしれない。
結局のところそうなんだと思う。
そんなふうに答えられれば良かったのかなと今更ながらその質問に対して徒然なるままに考えてみた。
注:これは一人の当事者としての意見であって代表としての発言ではありません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?