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これまでの歴史 Vol.1

「写真製版」とは印刷に使う原版を作ることを指します。
テクノロジーがいかに進化しようとも、印刷するためには元となる版が必要で、この関係は今も昔も変わりません。


創業当初 
1921年(大正10年)~1951年(昭和26年)ごろ

印刷業に携わってきた山田の歴史は深く、前身となる会社も含めると1897年(明治30年)まで歴史をさかのぼることが出来ます。お客様に「山田さんは印刷会社ですよね?社名に入っている製版所って何ですか?」と聞かれることがありますが、もともと製版会社として創業したことが由来となっています。

現在の山田写真製版所は1921年(大正10年)に初代社長である山田啓三が創業。富山県内では唯一の写真製版業者で、腐食凸版を用いた製版業を行なっていました。作業のほとんどは手作業。時代背景も相まって職人気質な環境。のちに2代目社長となる山田利雄は当時の様子を「人体にとって有害な薬品も取り扱う危険な作業現場だった」とその苦労を自叙伝に綴っています。

懸垂式製版カメラ。スキャナーが登場するまで製版のカラー化を支えました

印刷需要の高まりとカラー製版黎明期 
1960年(昭和35年)~1970年(昭和45年)ごろ

紙媒体が牽引する情報化社会に成長性を見出し、1957年(昭和32年)に富山県内を飛び出して東京へ進出。日本が東京オリンピック開催などに沸いていた時期です。戦後復興の経済成長を遂げる中で広告、印刷出版業界は大きな盛り上がり見せていました。

この時代は「色」への関心と憧れがかつてないほど高まった時代とも言えます。消費生活が活発化する中で、購買意欲や興味関心を高めるために、色という視覚情報は大変重要な要素であるという認識が広まっていきました。

テレビも白黒からカラーテレビに置きかわりつつある頃で、印刷も従来のモノクロ印刷ではない、カラー印刷の需要が高まっていました。製版のカラー化には専用の機械とそれを使いこなす技術者が必要です。積極的な設備投資と研究を推し進め、1967年(昭和42年)には北陸で初めてとなるカラー化対応ができる会社になりました。

弊社の歴史を辿ると必ず機械の名前がセットで挙がってきます。山田の歴史は製版機械の歴史といっても過言ではありません。

高い技術と感性が必要とされるドラム式デジタルスキャナ


現在へ続く山田の心臓部 
1974年(昭和49年)~1989年(平成元年)ごろ


スキャナと聞くと、家庭やオフィスにあるような、箱状の機械が思い浮かぶかもしれません。現在は手で持ち運べるサイズまで小型化されていますが、家庭用に普及する以前に使われていた「ドラム式デジタルスキャナ」は非常に大がかりなものでした。カラー印刷需要の高まりを受けて、1974年(昭和49年)に導入。1台で何億円もするため、地方の製版会社で所有しているところはまだ少ない機械でした。

名前にデジタルとはありますが、全て自動で作動するわけではありません。必要に応じてノブやツマミ、ボタンなどを無数に操作する必要があり、高い技術を要する機械でした。機械性能を引き出す豊富な経験はもちろん、原稿に込められた美意識を鋭敏に嗅ぎ取る感性なくして「正しい色、かつ、トーン豊かな」写真画像を得ることはできません。

この時に生まれた色調再現への飽くなき情熱は、会社の精神面、技術面を強固にし、脈々と受け継がれることで現在の山田品質を支えています。

これまでの歴史 Vol.2 へつづく

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