続・自己紹介(医学部受験、浪人時代)

2つの記事となってしまいすみません。前回に引き続き自己紹介を続けたいと思います。今回は少し勉強方法に関することにも触れているので是非最後まで見ていただけたらと思います。

一浪目

浪人に関しては合計三年間浪人しました。一浪は駿台、二、三浪目は北予備FERIXというところで浪人生活を過ごしました。一般的に見れば長い浪人生活でしたが勉強だけでなく友人と過ごした日々は本当にかけがえのない思い出で宝物です。

それでは僕の浪人生活の一年目の話です。浪人が決まって勉強漬けで絶対に受かるぞと志を持って入校し寮にも入りました。全てが新しい環境で最初の1週間はしっかり勉強に取り組み良い生活習慣を送っていました。

1週間ほどたった後から寮の食堂で喋っていた数人のグループと仲良くなり、そのグループのみんなとつるむようになりました。みんな色々な県から来ており話すのも一緒に過ごすのも新鮮で高校を卒業してから全く価値観の違う人と会えて本当に楽しかったです。

楽しいあまりみんなで毎日のように予備校が終わった後に一緒に話したり遊んだり、次第に予備校にも行かず遊び呆けるようになっていました。全く勉強してなかったわけではないのですが、予備校でほとんど授業を受けることもなくたまに友人と勉強する程度で全く身になっていませんでした。

そして、ある模試を受けた日に自分の勉強に対する価値観がガラッと変わりました。模試を受け終わった後自分でこっそり自己採点をして、あぁまた出来てないなと思っていた時いつもいる友人の1人が今から自己採点するわといいました。

彼は東大の理科1類を目指しており県外の優秀な高校から来ていました。彼とはよく一緒にいて勉強は全くといっていいほどしていませんでした。彼が勉強していないことは彼と同じクラスの人もよく知っており自己採点をする時1番上のクラスの人間がちらほらと集まってきました。

そして数人に囲まれて自己採点を始めたのですが、自分が6割ほどしか解けなかった模試にどんどん丸がつき9割を超えていました。それに対して周りはまぁまぁいいなぐらいの感覚で自分は上のクラスとの圧倒的な差を感じ、同じ生活をしていた友人にもとてつもない差があることにショックを受けました。

ショックを受けた帰り道、彼にどこの大学目指してるのと聞かれ医学部と答えました。すると彼は今のままだと医学部行くの大変だと、今日自分の周りにいた人たちに勝たないと受からないと言われました。自分が通っていた頃の駿台は医学部クラスというものがなく混ぜられていたのでライバルというものが意識できていませんでした。

しかしその話を聞いて相当なショックと到底追いつけないと、さらにショックを受けたのを覚えています。結局その友人は自分達と遊んで東大には行けず、大した大学にも行きませんでしたが大学一年で大学に行くのを辞めて2ヶ月の勉強で旧帝大の医学部に行きました。天才ですね笑

そんなショックを受けつつも一浪目は友人達と遊んで勉強はほとんどせず現役の頃に受けた2校だけを受けてしっかりと落ち二浪目が決まりました。一浪目はまだ周りで浪人する人も多かったので違和感はなかったのですが流石に二浪になった自分というものを受け入れるのに時間がかかりました。

二浪が決まって二浪に入るまでの間少し予備校に残って勉強をしていました。その時先ほど話した彼に電話をして二浪が決まったこととどのように勉強をすればいいのかを聞きました。そこで言われたのはまず勉強してみること、なんでもいいから勉強をすれば自分がすべきことが見えてくる。

これに最初は理解できませんでした。なぜなら自分は具体的にこの科目をやるとかこの分野をやるとか、基礎をやるとかの言葉を期待していたからです。しかしこの言葉を自分の勉強の指針にすることに決めました。この指針は間違っていなかったことは二浪目、三浪目に証明されます。

二浪目

一浪が終わり実家に帰って父親と話しました。そして成績が上がってないけど自分で決めたことを尊重していた、今後どうするのか、医学部を目指すのかといった話をしました。色々考えて医学部を目指す意思を伝えると、医学部を本気で目指すなら何年でも応援すると言ってもらえました。

この言葉は自分にとって本当にメンタルが崩れないありがたい言葉でした。人によっては甘い言葉に見えるかもしれませんが自分は逆に覚悟が決まりました。予備校は厳しいと言われる北予備に入れと言われました。一年目も進められたのですがそんなところに行きたくないと思っていました。

しかしこの時は本気で腹を括って勉強をしようと決めていたので迷わず行くと言えました。すぐに入校する予定でしたがコロナの影響で5月からのスタートで、それまでは家事を手伝ったりしながら予備校から送られてきたテキストを進めました。

そして入校してそれからの3ヶ月は死に物狂いで勉強し、友人は作らず休み時間もひたすら勉強して先生にも1番質問しにいってしっかりと計画を立て勉強しました。そのおかげで成績はぐんぐんと伸び入校してから初めての模試で医学部D判定を出せました。

高校三年間と一浪目に一回もE判定以上をとったことがない自分にとって本当に努力して良かったという初めての成功体験でした。そしてその後も二浪目の最高の判定はC判定までは取れました。

自分が入った北予備FERIXという場所は全員が医歯薬獣医を目指す予備校だったので周りは良いものさしでした。そんな周りからもあいつは頭がいいと少しずつ認められて自分もこのままいけば受かるという手応えを感じました。しかしこの自己紹介を書いて自分にうんざりしますが夏が終わる前ぐらいから寮の友人とつるむようになりました。

勿論北予備という予備校は強制的に勉強をさせる場所だったので一浪目のように遊び呆けるといったことはありませんでした。しかしその時間にちゃんとやるかは本人達にかかっています。そのため自分は自習時間にこっそりYoutubeを見たりXを見たり、夜はみんなで夜遅くまで話したりしていました。

一浪目とまた同じような流れになっていましたが一浪目と違ったのは最低限の勉強は確保されていたので死に物狂いで勉強した3ヶ月とその最低限の勉強でなぜか成績が上がっており偏差値は60前半から中盤くらいになっていました。

入校時は偏差値55くらいだったのでこの成長曲線なら受かるだろうといった慢心があったのだと思います。多くの受験生が勉強しても成績が上がらないといった人が多くいましたがその中で自分が勉強量が減っても成績が上がったのは二浪をする前に決めた指針のおかげです。

最初は理解できなかったあの指針の意味は何が足りないかを意識しながら勉強することでした。自分は何が足りていないのかそれを意識した上でまず勉強に取り掛かってみる。多くの受験生はこの問題集を進めるなどを考えて勉強すると思います。

しかしそうではなく勉強をして何が足りてないのかを意識すると自分は今この分野はここまで解ける、でもこっちの分野は弱いと理解します。それがまず第一歩です。そしてそれを意識すると全体的に計画が立つ、この分野をこのくらいやってこの時期にこの分野をやろうと。

さらに意識して勉強するとその分野の中でも自分はどのような能力が足りてないということに気づけます。暗記なのか思考力なのか、それに気づくとさらに自分で次に何をすべきかが見えてきます。そうすると勉強の計画や進度にリズムが出てきて着実に成績が上がっていきます。


これができていたおかげで成績は勉強量が減りつつも少しずつ上がっていきました。まぁしかし元々55程度の偏差値しかない自分が数ヶ月努力しないと、身になってないわけではないですが受験で本領を発揮できませんでした。

チューターや周りにもどこか受かるだろうと言われていましたが結局は努力不足で6校全て、川崎医大さえも一次試験落ちとなりました。最後まで頑張ることが大事ですね。流石に一浪目より頑張っていたのでショックでした。一次試験に受からないということは面接の経験もできない結果だったからです。

ショックを受け3月は一才勉強せず三浪について考えながら親とダメだったけど成績は上がってたし道は間違ってないことを理解してもらい三年目を覚悟を決めて挑むことにしました。

こんな息子を信用してくれて支援してくれた両親には本当に感謝しています。普通の家庭では無理であることは十分に理解していたのでここで精神的にも成長できたいい機会でした。

さてだいぶ長くなってしまいました。三浪目まで書くつもりでしたが最後の三浪目は次の記事にしようと思います。最後の三浪目は多くの受験生に参考になると思います。是非自己紹介ですが最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

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