見出し画像

1980~90年代少女漫画の恋愛観に支配されていた話

現在約40歳の私は、小学生時代に少女漫画雑誌『なかよし』を愛読していた。
当時の少女漫画購読者は集英社刊『りぼん』派と講談社刊『なかよし』派に大別されており、りぼん派がやや優勢である中、私は小学2年生から一途になかよしを購読していた。
生まれて初めてハマった漫画が、今は亡きあさぎり夕先生の『なな色マジック』だったからである。
また、セーラームーンの原作者竹内直子先生がめきめきと頭角を現してきた時代でもあり、逃げ恥の海野つなみ先生がデビューして地道な活動を始められた時代でもある。
りぼんにおいては、ちびまる子ちゃんやお父さんは心配性などの伝説的作品が連載中で、姫ちゃんのリボン、赤ずきんチャチャなどが爆発的人気を誇っていた。
ときめきトゥナイトは私の世代より一瞬前の連載作品であったと思うが、完結後に友人から全巻借りて激ハマりしたものである。
今思えば、リアルタイムで追いたかったという感覚はオタクへの目覚めを感じさせる。
性の目覚めは遅かったが、オタクへの目覚めは早い少女であった。
ちなみに当時『ちゃお』はマイナー組であり『少女コミック』は刺激が強めで小学生児童をドキドキさせまくっていて、友人から北川みゆき先生の単行本を借りてコソコソと回し読みしていた記憶がある。
グランドピアノの上に押し倒されたヒロインの横に添えられた「君がどんな音で鳴くのか聞かせてくれ」みたいな吹き出しを読んだときには発狂するかと思った。
今は昔のお話である。
心が腐るほど汚れてしまった私は、今はもうそんなシチュエーションではびくともしないのである。若さとは美しい。
(※注:イベントやお通販で購入可能な薄い本にて推しと推しがアレな場合を除く)

さて、本題に入ろう。
現在、四捨五入して40歳の私であるが、己の恋愛観についてどうもしっくり来ない感覚をずっと味わってきた。
それこそ、性に目覚めた瞬間から30年以上である。
40近くなって始めたツイッターで所謂フェミニズムのような発言を多く見かけるようになり、それに納得したり色々考えたりする中で私はようやく気が付いた。
ああ、己の恋愛観は呪縛であった、と。

今までの私の恋愛観・女性観というのは以下のようなものである。

・結婚(恋人との一生の約束)とは人生のゴールの一つである
・男性は女性を守り、女性は男性に守られるものである
・つがいは分かり合える

アホかーーー!!!!!!!!!
キモッ!キモッ!!!!!!!!!!!!!!!

と皆様お思いのことであろう。
自分で書き出してみても鳥肌が立つ。
学生時代の私に会ったら恥ずかしさのあまり鼻血を吹きながらぶん殴ってしまいそうである。
しかし、これらを「希望」という形に書き直してみると驚きなのだ。

・結婚したい!
・守りたい!もしくは守られたい!
・分かり合いたい!

はいきたこれこう思う人は多いんじゃありませんこと???(仲間を見つけてしたり顔する絵文字)
まさしく私がそうだった。
物心ついたころからつい最近まで、ずっとこう思っていた。
誤解のないように言っておくが、私はこの価値観が悪だと思っているわけではない。
先に散々disっておいてあれなのだが、disったのはあれだ、己の恥をどうにかして誤魔化したい本能がそうさせてしまったのだ弱い人間で申し訳ない。
真実そう思っている人も居るであろうし、本人がそれで納得しているのならそれはそれで良いのだ。
問題は、私が実際その価値観を持っていたわけではなく、それが正しいとただひたすらに信じていたことである。
いわば洗脳を受けていた状態だった、ということなのである。
私は洗脳を受けた状態で異性とお付き合いをし、結婚をした。

この洗脳の話を掘り下げる前に、私自身の性格について説明しておこう。
基本的に私は一匹狼で淡泊な性格であり、あまり他人に興味がない。
大事なことは自分で決めねば気が済まず、人に任せることが苦手である。
見返りを求められることに苦痛を感じるので人に頼る時はかなり慎重になる。
当然人に甘えるのは下手糞極まりない。

さて、以上の性格を踏まえた上で前述した恋愛観と照らし合わせてみて欲しい。
無理じゃね?
守られたいという価値観を持っていても、性格が守られることを拒絶するのでこれはもう完全な矛盾である。
楚の商人もびっくりである。
そもそもどう考えても我々の世代一般常識範囲での結婚には向いていない。
過去付き合った異性(旦那氏を含む)には「嫉妬してくれない。冷たい」と責められるのが常であった。
意味が分からない。執着心の有無と心の寒暖は別であろうが。阿呆か。私は何も悪くない。
私が就寝中己の歯ぎしりの音で目覚めるのはこの時のことを思い出しているからに違いない。
ともすれば毎夜五月蠅いいびきをかいたり盛大な寝っ屁をかましてしまうのもこのせいだ。間違いない。

積年の恨みをつい吐露してしまって申し訳ない。
閑話休題。
私にとって実の所を言えば、結婚とはただの人生のオプションの一つであるし、自分のことは自分で守るのが自立した人間であると思うし、そもそも人間同士は分かり合えないので分かり合えないことを前提に尊重しあうべきだと思っている。
これが私の恋愛観を含めた価値観だ。
しかしながら、これは多くの人がそうなのではないかと思うのだが、私は人間関係と恋愛関係を別物として捉えていた。
恋愛観については、完全に幼少期から思春期にかけての刷り込みによってできたのである。

前述の恋愛観をあえて「前時代的恋愛観」と表現するならば、そもそもうちの母親がこの前時代的恋愛観の虜であった。
その環境下で私は少女漫画誌を読みふけっていた。
ヒーローからヒロインに向けての「俺が守ってやる」という言葉に憧れ、包み込まれるかのようなバックハグに憧れ、いついかなる時もどんなに遠く離れていてもヒロインの元に駆け付けるヒーローに憧れ、すれ違っても最後に分かり合えて愛し合える関係性に憧れた。
そして多くの恋愛漫画は、紆余曲折を経たヒロインとヒーローがくっついて幸せになったところで完結するのである。
実際は付き合い始めてからも関係性は続くのだが、お話の世界はくっついて終わりだ。
これはもうシンデレラの時代からそうである。
結婚=ゴールというイメージがあるのはそのためではないか。

私が自分の恋愛観について持ち続けた違和感は、己の価値観と与えられ形成された恋愛観との齟齬によるものだったのである。
恋愛関係は特別だと思われがちだが、実際は人間関係の一つであるから根底にあってしかるべきは己の人間関係に対する価値観そのものなのではないか。
友人関係はうまく行くが恋愛関係はうまく行かないと言うのは、恋愛観が人間関係観と乖離しているからではないか。
私はそのように考察している。
私のように、己の価値観がしっくり来ないという人は、一度今の価値観が外付けのものでないかどうかを精査してみたらいいのではないかと思う。

私は結婚もしてしまったし今後恋愛をする予定もなく、違和感も払拭できたのでまあもういいかな~なんて思っているが、ここで思い至るのは次の世代だ。
現在は小学2年生になる私の娘がなかよしを購読している。
私が読んでいた頃から30年ほど経過しているが、ヒロインがヒーローに「守られる」という感じから「面倒を見てもらう、助けてもらう」という感じにシフトしている印象を受けるものの恋愛漫画の基本構造としてはあまり変わっていないように感じる。
ヒロインがヒーローに守られながら紆余曲折を経てくっついた所で完結するのである。
やっぱりそれが人気だもんねわかるわかるわかりすぎて怖いくらいわかる。
遠山えま先生の漫画なんかすごいきゅんきゅん来るのでおばちゃん毎月読んじゃう。三角関係最高。
少女漫画に描かれる恋愛関係はときめきがあり憧れる素晴らしいものであるが、単純にこれをモデルケースとするのは危険である。
本当の自分の恋愛観とギャップがある場合、どんな風に恋愛をするのが自分にとって正しいか、私のように見失ってしまうからだ。
これは、性教育を受けていない男子が過激なAVを見て教科書にしてしまうのと原理的には同じではないかと思う。

今はもう多様性の社会である。
娘が大人になるころにはもっと色んな人が生きやすくなっているだろう。
選択肢の多い未来になっているだろう。
思い込みは見える選択肢の数を減らしてしまう。
来るべき未来に沢山の選択肢が見えるように、確実に自分自身の価値観で絞り込みができるように、自分の娘には自分の価値観が第一基準であることを教えておかなければいけないなあと思う。
どうすればいいかは分からないけれど、試行錯誤でできる限り。

ところで今再びなかよしを購読し始めて衝撃だったことがある。

わんころべえの連載はまだ続いていたのだ…。

もしよかったらサポートしてください! コーヒーかビールを買って、明日も何とか生きようと思います!